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レシピから自由になる為のレシピ。その9 「自分の舌を信じる。」

ある春の日のこと。今はもういないボクのばあちゃんが、遠い北海道からやってきていた。とても素敵な人だった。すごく小さくて、笑っても怒ってもかわいい人だった。
父が運転する車の後部座席で、ボクは大好きなばあちゃんと座って、車窓を流れる景色を二人で眺めていた。寒くて縮こまるような冬のエネルギーから解放された花々が、陽の光を浴びてのびのびと、でも控えめに咲いていた。

「綺麗だねぇ」ばあちゃんは言った。
「綺麗だねぇ」ボクも言った。

ばあちゃんを見ると、すっかり小さくなった瞳を輝かせていた。

「ほれ、あそこを見てごらん」

ばあちゃんの指す方向を見ても花はない。

「ん?どこの花さ?」
「花でないよ、ほれあそこの洗濯物さ」

ばあちゃんは花には目もくれず、家々に干されている洗濯物を愛でていたのだ。

「ばあちゃん、キレイな花がたくさん咲いてるよ」
「ん。洗濯物もキレイだよ」

と、やさしく無邪気に言った。
ばあちゃんは洗濯物の向こうにある「家族の風景」を見ていたのかもしれない。ばあちゃんが神々しく見えた。


自分の舌を信じる。

料理を人に食べて頂く仕事をしていると、「美味しい」で迷うことがあります。「美味しい」に正解があるんでしょうか?残念ながらないみたい。100人が100人美味しいと思うものはないようです。味が強くて濃いものが好きな人もいれば、優しい味つけのものが好きな人もいる。同じ人でも体調や気分によって違うでしょう。いつも脂っこいものが好きでも、体調が悪かったらお粥や雑炊が美味しいと感じます。

迷います。どこに合わせにいくのか。例えばニンニクの量。多めに入れるのか否か。例えば甘さ。甘辛い料理の甘さを控えめにするか否か。例えば最後の塩ひとふり。味見したときに、もう気持ち塩気が欲しいと感じたけど、でもこのままでも美味しい。あとひとつまみ足すか否か。

そんな時頼れるのは、どうしても自分の舌しかない。自分が美味しいと感じるものを作るしかないです。

アナタはどこにいますか?

でも信じられますか?ふだん誰かが美味しいと言ってたものを美味しいと感じてませんか?知らない誰かが星をつけたお店に行って安心してませんか?みんなが並んでる店に並んでませんか?料理だけのことを言ってるんじゃないんです。売れてる曲を聴き、みんなが良いという物を身につけ、フォロワーの多い人をフォローし、みんなが星をつけた店に行く。

アナタはどこにいますか?

美味しいってとても素直な感覚。素敵な絵を目の当たりにした時や、圧倒されるような景色と出会った時や、いい映画を観たときと同じように、自然と沸き上がってくるでしょ?

料理は自分との対話でもあります。自分の感覚と仲良くなれます。音、香り、包丁で切るときの感覚、色、味。
感覚って自分で意識して作り出せるものじゃない。いつの間にか作り上げていた自分とは違う、素直な感覚を料理の中で感じることができるんです。つまり料理をするっていうのは、自分を取り戻すための作業にもなり得るんです。「レシピから自由になる為のレシピ。」というのは、誰かが作ったレシピという名の、窮屈な枠(わく)から抜け出して、自分ともう一度出会いませんか?っていう提案です。

乱れ咲く花を前にしても、ただ自分が心動かされた洗濯物に目を輝かせるばあちゃんのように。

アナタの味は神の味。

しんっと静まりかえった台所に最後に立ったのは、いつだっただろう。

忙しい日常から離れて、心静かに台所に立っている時。台所の神様がきて「楽しめよ!」って言ってくる。「ほれ、その音!美味しい音だろ?ハハ!」とか、「おお?それとそれ組み合わせる?」とか、「その甘美な香りはワタシが贈ったんだぞ?」とか「その野菜スゴいだろ?それはホラ、このワタシが!」とか「料理で遊べよ」とか言ってくる。寅さんかっ?ってくらいのテンションだ。
そう。楽しまなくっちゃ、な。もっと。
そういうと「バカな子だね?そんなこと忘れろ!楽しめっ」って。

「食べ物で遊ぶな」って怒られてきたけど、本当はもっと遊んでいいんだと思う。たぶん、全部忘れて料理を楽しみ切ったときに出来たその料理は、アナタ自身の料理で、アナタだけの味。そして、きっとそれは神様と繋がった神の味。

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