【雑文】なぜ春馬君にはアジアの街が似合うのか
映画館で『真夜中の五分前』を観た。この映画はどうしても映画館のスクリーンで観てみたかった。
「どうしても映画館のスクリーンで」。そんな風に思える映画は、人生でそういくつも出会ってきていないのだけれど。
そして、予定通り、行定ワールド全開の独特な映像美と、人間の業を描く世界観に酔いしれた。
春馬君の演じる良は、美しくて、儚くて、孤独で、強くて、愛に溢れている青年だった。
それにしても、春馬君はどうしてこんなにアジアの街並みに溶け込むのだろう。
私がこれまで観た中で、アジアの街並みに立つ春馬君が見られる作品といえば、『Tourist』、『コンフィデンスマンJP』、そして「真夜中の五分前』。
どれも、立っている街は違うのに、役も全然違うのに、なぜかすごくしっくりと画面に収まっている春馬君。
もちろん、某アパレルブランドのCMで見たロンドンの街並みの中の春馬君も、キンキーブーツのトリビュート映像で観たNYの街並みの中の春馬君も、どこにいたって春馬君は春馬君で、カッコいいんだけれど。
そうか!
アパレルのCMにしろ、NYにしろ、そこに映っているのは、役者三浦春馬、その人。
アジアの街並みにいる春馬君は、なにかの役を演じている春馬君。
旅人、詐欺師、時計職人。
旅人にしろ、仕事で出張に来てる体にしろ、そこで暮らしているにしろ、アジアの街に溶け込む役を演じているから、しっくりくるのか。
言い換えれば、春馬君は、街を相手になにかを醸し出せる表現者なのか。
アジアの街で春馬君が演じる役はどれも、どこか孤独が付き纏う役。それでいて、どこか人懐っこくて、寄ってくる人を突き放せない「いい人っぽさ」がちょろりと顔を出す。
若い頃、『Tourist』の真のように、リュックを背負ってあちこち1人旅をしてた時、アジアの国々が、とても居心地が良かったのを思い出す。
なにが心地よいって、他人との距離感が心地よいのだ。アジアの人はざっくり言うとシャイでお節介だ。だからひとりで居たいと思っていると放っておいてくれる。誰かと話したいなと思ってると、誰かが話しかけてくれる。そういう阿吽の呼吸というか、察する力みたいなのは、アジアの人々は、総じて高い気がする。
そんなわけで、アジアを旅していると、ひとりでいても孤独を感じる事がない。旅人だから煩わしい人間関係もない。それでいて助けが必要な時は、そこらじゅうからお節介な人がわらわら集まってきて、本気で助けてくれる。お陰で、なんの心配もなく旅ができる。真が合ったようなひったくりやスリ、あと買い物の際のぼったくりには注意が必要だけど、それ以外は、気負わず、等身大の自分でいればいい。
春馬君がアジアの街に溶け込んで演じているのは、そんなアジアのカルチャーを体現する人なんじゃないか、と思う。いや、そういう役だからアジアの街に溶け込んで見えるのか。
時計職人の良は、ストイックに時計修理の仕事に向かい合ってるように見えて、過去の諸々から立ち直っていないように見えて、心を閉ざして孤独の闇の中にいるように見えて、距離感の掴みにくい女性と愛し合う事もできる。時計屋の主人ともちゃんと信頼関係ができている。
孤独と人懐っこさが良の中に同居している。
なにかを探している旅人の真は、探しモノが見つからず、どこか孤独で寂しげ。だけど、旅先で出会った謎の日本人女性を放っておけない。
かかわれば面倒な事になる予感はしているのに、求められればちゃんと向き合う事ができる。少しは下心もあったりするのかもしれないが、やはり孤独と人懐っこさが、真の中に同居している。
詐欺師のジェシーの本音は中々読み取れないけれど、でも孤独に耐えられるほど腹の座った大物でない事はたしか。誰からも忘れられる孤独には絶対耐えられなさそうだし、それどころか、誰かに認められたい承認欲求を満たすために、詐欺師をやってるんじゃないか、と思える節がある。
いや、詐欺という人でなしな事をしてでも、認められたい、というか。
ジェシーはあんなだから、味方はいなくて孤独なんだけど、でも実はものすごい人懐っこいヤツな気がする。
春馬君には、そういう二面性のある役がよく似合う。
孤独と人懐っこさ。
この相反するキャラクターをうまくひとつの人物の中にはめ込んでしまう。
シャイでお節介な人であふれるアジアの街には、このキャラクターが本当に馴染むのだろうと思う。
あぁ、またアジアを旅したい。
そして、まだまだアジアの街で生きる人を演じる春馬君を観たい。
春馬君が演じる孤独で人懐っこい青年を、孤独で人懐っこいオジサンを、孤独で人懐っこいお爺さんを、アジアの街並みの中で観てみたかったな。