旅するような人生を
今日の映画は
旅猫リポート
このnoteは私が触れた本や映画からの学びをアウトプットするための備忘録のようなものです。
Talk 1 / もしもの世界で…
まずはじめに映画のあらすじを紹介する。主人公が飼う猫(ナナ)とともに譲り手を探しながら主人公の生い立ちを回想していく。幼少期に両親を亡くし、飼い猫(ハチ)と離れて暮らし死に目に会えないなど壮絶な過去を持ちながら優しさ溢れる人へ成長した主人公。そんな主人公の残された時間は残りわずかとなった。最後には心優しい主人公らしい人生の終わりを迎える物語。
この物語では猫が話せる。会話を交わすまではいかないがなんとなく意思疎通が図れている。もしも人と猫が話せたらこんな感じなのだろうなと思いながら見始めた。ふと幼少期の記憶が舞い戻ってきた。
私が小学生の頃、いつものように登校すると校門の前に人だかりが出来ており中心には見慣れない段ボールがあった。“拾ってください”そう書かれた段ボールの中には6匹ほどの生後間もない子犬たちがいた。一瞬で心を奪われた。きっと一目惚れってこういう感覚なのだろう。校長先生に促され教室へ入った。授業なんて全く頭に入ってこず、ずーっとその子犬たちのことを考えていた。そして、いよいよ下校の時間になり一目散に校門へ向かう。もうそこには段ボールの姿が無かった。
それでもやっぱり子犬のことが忘れられず、帰宅するなり母に直談判した。いくら言っても答えは“NO”だった。わかり切っていた答えだが落ち込んだ。その理由は昔弟がサルモネラ菌に感染し入院したからだ。それから我が家では動物を飼えなくなった。夜眠りにつくときも起きてからも子犬のことを思い出していた。
翌日も校門でその段ボールを探したが、やはりいなかった。学校にいる時間は長く退屈にさえ感じた。やっと下校の時間を迎えトボトボ帰宅すると、玄関に昨日の1匹の子犬がいた。心の底から嬉しくて玄関で飛び跳ねて喜んだ。続けて帰ってきた兄弟も同じ反応だった。
なんと母が保健所まで行き、この子を迎え入れてくれたのだ。母の予想外の行動だったためこの時ばかりは信じられなくて夢かと思った。初めて素で頬をつねった。痛かった。現実なのが嬉しくてさらに喜んだ。
この日から愛犬“コロ”が私たち家族の一員となった。帰宅すると尻尾をちぎれそうなくらい振って喜び、散歩に行くと嬉しさからリードをぐんぐん引っ張った。散歩中、私たちは色んなことを話した。学校での出来事、部活の話、友達の話…私が真剣な話をすると歩みをゆるめ、時折返事をするかのように振り向いてくれた。それはまるで会話をしている感覚だった。
映画を見てこのことを思い出した。幼少期は動物と本当に話せていると思っていた。そう思えなくなったのはいつからだろう。
大人が決めた“現実”を知ると消えてく世界
そうか、勉強をするようになり世界の“常識”を学んだことでその世界が存在しないものと捉えるからだ。去年、動物や植物・過去の偉人など様々なモノと話せる人と出会った。正直、アニマルセラピーなどはテレビの中の人という感覚で実在していないように思っていた。私の前に現れたその人はこの世界の一つの“真実”だった。
そこから少しずつ私の見える世界が変化しているように感じる。まだ動物と話すことは出来ないが、幼少期のようになんとなく意思疎通が図れている気がする。これも私が勝手に決めた枠のせいで見えていなかった世界だったのだ。
もしも動物や植物、ありとあらゆるものと対話出来る世界があるとすれば、あなたはどんな対話をしますか。
Talk 2 / 言葉を介さなくても…
もともと福士蒼汰がイケメンで好きだから見始めた映画だったが、演技力の高さに感動した。私が最も感動したのが亡くなるシーンだ。最後の言葉を発したあと、表情の変化で亡くなったことを体現していた。
看護師として人の死に目を見てきたからこそリアルに感じた。少し微笑んだように見えてそこからスッと力が抜ける、演技だけど本物のようで鳥肌がたった。
この映画は主人公の過去の体験が辛いものが多く泣くシーンが多々ある。泣き方も全然違い、振り返ってみると涙を使い分けているようだった。すごい。これがプロなんだ。
コミュニケーションと言われれば言葉を介すると思いがちであるが、顔の筋肉の動かし方で表情が変わり些細な動きでも感情を伝えることができる。
感情を表す筋肉の使い方を学ぶ
これは今まで考えたこともなかったから、これから試してみたい。
Talk 3 / 生の終わりを意識すると自分の本質が見えてくる
ここからが本題である。今回も「死」がテーマとなっている。自分はどんな生の終わりを迎えたいのだろう。考えてみる。
やりたいことを全部やりきる
今、これをモットーに生活している。やりたいと思ったことには出来る出来ないを関係なしにトライする。最初から出来ないという選択肢を除外してどうやったら出来るかだけをとことん突き詰めて考えている。結果、達成できていることがほとんどだ。死を迎えるその日までこれはし続けていきたい。
大切な人に囲まれる
私は環境を変えるのも整えるのも自分自身でやらないと何も変わらないと思っている。もちろん人間関係も同じだ。だから、大切な人に囲まれて死を迎えたいのなら【大切な人を大切にする】ことを全うするべきである。大切にするとは、【愛の在る心で接すること】である。これは絶対にぶれない自分の軸として何があっても守り続けていきたい。
今日も幸せだったと思える人生
死を迎えるとき『今日まで幸せだった』そう思いたい。人はいつ死ぬか分からないからこそ急に死が迎えにきても『今日も幸せだった』と思えるよう【毎日幸せで在る】ことが重要である。負の出来事をグチグチ言うタイプのひととそこからポジティブに捉えていくタイプのひとがいる。例えば、《アベノマスク》。ネガティブな人は小さい、こんなものに200億使うなんてと言う。ポジティブな人は確かに小さいかもしれないけど工夫できないか、自分たちがこのマスクを使うことで医療従事者に医療用マスクがいくならいいと言う。これはあくまで例だが、マスクが小さいと言って死んでゆくのかマスクが無い中もらえて嬉しいと言って死んでゆくのか考えたとき、私は後者になりたい。
人はいつ死ぬか分からないからこそ、負の出来事を背負った状態でいるのはナンセンスなのだ。
どんな大人になりたいか、どんな夢があるかと将来を考えるのは難しい。ただ一年後に死ぬと考えたらやりたいことはスッと出てくる。つまり、
生の終わりを意識すると自分の本質が見える
本当に自分がやりたいこと、どうなったら幸せかを知るには生の終わりを意識するとよい。そこに自分の本質がある。まだ20代だから終活なんて関係ないと思っていたが、この映画を通してその視点から見えるものもあると学んだ。物事の違う視点が持てるように練習していこう。
Ricky.
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