チョコレート箱のような人生を
今日の映画は
フォレスト・ガンプ/一期一会
このnoteは私が触れた本や映画からの学びをアウトプットするための備忘録のようなものです。
Talk 1/ 枠を決めるのは自分
この映画のあらすじを紹介しよう。主人公のフォレスト・ガンプは知能指数が人より低く、背骨の変形から装具を使用し歩行していた。幼少期はいじめの標的となったが、逃げるために必死に走るうちに装具なしで走り回れるようになる。偏見を持たず分け隔てなく接してくれるジェニーとともに過ごすうちに恋に落ちていく。走りが認められアメフト選手として大学へ進学、集中力と身体能力の高さから米軍で活躍、そこで見つけた新たな趣味で卓球代表選手、親友との約束を果たすためエビ釣り漁師と成功を収めていく。その中で『愛』とは何か、『死』とは何か解いていく。フォレストの果敢にトライする姿に周りの人達も影響を受けていく物語。
前回の映画に引き続き、今回も『偏見』が一つの柱となっている映画。この映画はずっと気になっていたが中々見始められなかったものだった。なぜか今日、観なくてはならない念を追われて観た。
幼少期、些細な理由がきっかけでいじめにつながることがあった。人が集えば、必ず標的になるものがいる。そんな時を生きてきた。フォレストの凄いところは『くよくよしない』ことだ。もちろん、辛い、苦しい体験であったことは間違いないが、悲壮感に打ちのめされたり、復讐心に心を支配されたりすることなく『走って逃げる』を全力でした。母の教えを純粋に受け入れ、清らかな心を持つフォレストは無敵のように感じた。
Stupid is as stupid does.
「バカをする人がバカなんだ」
自分がバカだと思ったらバカになる。自分が出来ないと思ったら出来ない。そんな風に私は聞こえた。限界を決めるのは自分自身とかそう言う類の言葉を聞くが、フォレストの生き方を見て心から同意した。
『枠』を決めるのは自分
自分の特徴を『障害』という枠に入れるのか、その夢を『叶わない』という枠に入れるのか、いつだって【枠】を決めるのは自分自身だ。枠に囚われず努力できる彼だからこそ、彼の得意を活かして成功をおさめることができた。今、あなたはどんな枠に囚われてますか?
Talk 2 / 愛のベクトル
新たな発見があった。それは私が苦手な人間の判断基準だ。私は、ふと苦手だと思い始めるとその人から距離を置く。(たぶん大体の人がそうだと思うが)
相手は気づいていないかも知れないが、私が距離を少しずつ離すことで自然と離れることができる。では、なぜ苦手だと思ったのか。その答えをこの映画のなかから見つけた。
損得勘定で物事を判断する
これが苦手な人だ。確かに何かビジネスを行う上で利益を生み出すことは必要なのかも知れないが、この損得勘定で人を選ぶという行為が苦手なのだ。フォレストは自分に利益がある無しに関係なく、ただひたすら目の前のことに打ち込んでいた。自己愛より他愛の彼に周囲は魅了されていった。
この映画を観るまで私は“自己肯定感”が大事でそれは“自己愛”のことだと思っていた。
自己肯定感≠自己愛
これが同じではなかった。これは人それぞれの価値観であると思う。私の自己肯定感は、人から感謝されたときに高まる。まるで存在意義を見いだすかのような感じである。自分のことは好きであるが、“ありがとう”をもらうともっと好きになれる。私がやりたいビジネスの形もきっとこれが芯になるだろう。以前、ありがとうの数は企業価値を示すと学んだ。それと同じだ。
自己愛が強いから問題であると言うわけではない。私欲のために動く人を私が苦手だと言っているだけの話である。このことに気づいてから今まで苦手になった人達の行動を思い返してみると、すべての人がそれに当てはまっていた。面白い気づきだ。
愛のベクトル次第で人の心が動く
頑なに戦死したがっていたダン中尉だったが、フォレストの人のために生きる姿に心を動かされ、助けてくれたフォレストに感謝するシーンはまさにこれを表している。自分の損得勘定で動かず他者のために生きることが出来るフォレストを尊敬する。私の愛が今、どこに向いているのか感じながら生きていきたい。
Talk 3 / 死は生の一部
数年前まで私が最も苦手としていたのが『死』だ。『死』を目にすると涙が止まらなくなった。どんな職業につきたいか考えたとき、真っ先に外れたのが看護師だったぐらい『死』を嫌っていた。そんな頃、勧められたのが助産師だった。生命の誕生に立ち会えるなんて素敵!という単純な理由で助産師を目指した。まさか看護師よりも『死』に触れる機会が多いとは知らずに。
世間一般的な助産師のイメージはきっと生命の誕生を助ける仕事であろう。しかし、産婦人科には死産や中絶など『死』が存在する。そして、中絶で失う命が年間16万以上あるのが現状だ。新米助産師の頃、この失う命の多さに悲嘆し、やるせなさを日々感じていた。
『死』と向き合わないために助産師になったのに。失った命を前にそう思っていた。誰からも祝福されることなく、産声をあげることなく人の手によって失った命を前に私は無力だった。
そして、時は流れ、私は新米助産師じゃなくなった。働き先を変え、看護師と助産師の二足の草鞋を履いた。その頃も『死』は苦手でこれは一生変わらない価値観だと思っていた。
どんな死を迎えたいか
人生の終わりは皆同じ、死である。働く中で、患者さんがどんな死を迎えたいか考えたことがなかった。看護師の同僚たちは、そこにフォーカスを当て自分ができる最高の看護をしていた。『死』をネガティブなものとしか考えてこなかった私には衝撃だった。そして、その患者さんが『死』を迎えたとき、私は泣かなかった。その人らしい『死』を迎え、温かな空気に包まれて旅立つ命は美しかった。家族から感謝の言葉をもらった。『死』から感謝の言葉が生まれるなんて思ってもみなかった。
この経験から『死』への苦手意識が無くなり始めた。この映画のように人生において“運命”があり“風に吹かれ漂うこと”があるとすれば、迎える『死』も同じことだ。それも“運命”であり、“風に吹かれ漂うこと”なのだ。相反する2つの言葉は、人生そのものを表している。そして、その最後に必ず『死』を迎える。どう迎えるかが大事なのだ。
Don't you be afraid,
Death is just part of life.
フォレストの母が遺した言葉だ。
この言葉を聞いて、ほんの少し心が軽くなった。
『死』は怖いものとして捉えがちであるが
『生』の一部としてみることができると
自然なものなのだと感じる。
死ぬことは生の終わりを迎えること。生きることの一部分だ。すっと心に響いた。生まれることが出来なかった命も確かにこの地球上に存在していた。お腹の中で生きていたのだ。
産声をあげることが出来なくても、その子らしい生の終わりを迎えられるように出来ることをしていきたい。
そして、私も自分らしく生の終わりを迎えられるように生きていきたい。
Ricky.
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?