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かがみあきら・没後40年目の夏に(3)

私はなぜ、かがみの作品に惹かれたのだろうか。大塚英志は『「おたく」の精神史』の中で、

 鏡味晃は男性の描き手でありながら、明らかに少女まんが的文体を持っていた。しかもそれは絵柄のみにとどまらなかった。鏡味が自分の恋愛体験を断片的にまんが化していたことは先に触れたが、鏡味晃は男性の側の一人称から「内面」を描こうとしていた点で特異だった。

と述べている。ここで大塚が念頭に置いているのは、同じかがみ作品でも自伝的・エッセイ的要素の強い『ワインカラー物語』であるのは明らかだ。『サマースキャンダル』はもっと少年漫画のテイストに近いし、大塚は別の場所でもこうした傾向の作品について「これは『ワインカラー物語』の頃にぼくが感じていた、かがみあきらの可能性とはやはり違う」と語っている。

しかし、それでも、私は無意識のうちにかがみの「少女まんが的文体」を嗅ぎつけ、それに共鳴していたのかもしれない。実際、私は大学時代にかがみの愛読していた昭和50年代の乙女ちっく少女漫画にのめり込むことになる。

それから、これはあまり言われていない気がするのだが、かがみ作品の登場人物は総じてオシャレである。学校の制服か、キャラを立たせるためあえて同一の衣装を着せている場合を除くと、彼らは小まめに着替えていて、しかも結構キマっている。いま読み返しても古さを感じさせない。これもアイビー漫画と呼ばれた陸奥A子などの影響であろう。

だが何より私の思い入れを強めたのは、作品の内容というより、かがみあきらという漫画家の立ち位置であったのかもしれない。中学に入ったばかりの私の周囲には、かがみの名前を知っている者など誰もいなかった。しかも作品が掲載されていたのは、ジャンプでもコロコロでもなくマイナーな雑誌だった。それだけに、かがみは大手メディアの仕掛けによってではなく自分で見つけた、自分だけの漫画家なのだという思いがあった。多かれ少なかれマイナーポエットの愛読者に共通する心性であり、いま風に言えば中二病的な部分もあったのだろう。

もっともそんなことを考えていられたのも私がもの知らずの中学生だったからで、当時すでに具眼の士にとってかがみの才能は疑いようのないものになっていた。小学館の雑誌にも作品を発表し(集英社の『ぶ~け』からも声がかかっていたという)、劇場版マクロスにもメカニックデザイン協力として名前がクレジットされていた(スタッフロールでは庵野秀明より先に名前が出る!)。あの富野由悠季も、結局実現しなかったものの新作のメカデザインを依頼していたくらいである。『ワンダートレック』掲載の年譜には「倍々ゲームのように仕事量が増大」とある。

思えば幼稚で独りよがりな錯覚であった。だがその錯覚の何と甘やかだったことか。(続く)

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