書評イタコ~わが書評「読書」歴~
10月25日発売のSFマガジン12月号に、春暮康一『一億年のテレスコープ』の書評を書いた。
『一億年のテレスコープ』は日本のみならず世界のSF史に残る大傑作なので、私の書評はともかく現物を未読の方がいたらぜひ読んでいただきたい。
ここでせっかくの機会なので、私にとって書評とは何かをまとめてみることにした。
私が書評というものの存在を知ったのは1985年、中学2年生でSFMの定期購読を始めたときだった。
当時の同誌で書評を担当していたのは、高橋良平・伊沢昭・鏡明・水鏡子・中島梓の5名。高橋が3頁使って総括的なことと複数の作品を書評し、残りの4人は1頁(だいたい400字詰め原稿用紙で4枚前後ではなかったかと思う)で1作品を書評するというのがフォーマットになっていた。
顔ぶれには変動があって、途中で中島梓が川又千秋と交代し、さらにそのあと伊沢昭・水鏡子が今村徹・中村融と交代した。
それで肝心の書評の内容なのだが、これがいま考えるとかなりフリーダムなものだった。
たとえば水鏡子。ヴァンス『愛の宮殿』を採り上げた次の号、さあ今月は何を採り上げているのだろうと頁を開くと「言い足りなかったことが多すぎる」と同じ本を書評していた。
たとえば川又千秋。ソ連の戦闘機はSFだ、というメチャクチャなこじつけを駆使し趣味のミリタリー本を採り上げていた。
たとえば中島梓。号によっては歌舞伎や芝居の評を書いていた。もはや本ですらない。
そして担当者が固定されているものだから、フリーダムだろうがメチャクチャだろうが毎月読んでいるうちにそれぞれのキャラが立っていく。極端なことを言うと、採り上げられた本の評価より、誰が何を言っているのかの方が面白くなっていった。
こっちはついこの間まで、雑誌といえばコロコロコミックしか知らなかったガキである。そんな人間が「こういうのが書評だ」と思って読んでいたら、そりゃ書評観も歪むわけだ。
おかげで「書評とは、採り上げられた本とは別個に読み物として独自の価値を持っていなくてはならない」という固定観念がどっしり形作られることになってしまった。もし書評というものをはじめて意識したのが別の雑誌だったら、こんなことにはなっていなかったろう。
ずいぶん後の話になるが、ある人と書評の話をしたときに「俺は書評というのは、粗筋と読みどころと評価さえ押さえてあればいいけどなあ」と言われ、そんな実用性一点張りで書評を読んでいる人もいるのかとビックリした記憶がある。
SFMの書評欄は、90年代になると現在のスタイルに変更される。すなわち、国内篇・海外篇などサブジャンル別に1人が担当して、そのサブジャンルに属する本は複数まとめて扱い、それとは別個に話題作があれば、単発で1頁設けて採り上げる体制である。
もともとSFMの書評欄は、石川喬司が「SFでてくたあ」としてSFであれば何でもまとめて採り上げるかたちでスタートした。その後出版点数の増加に伴い、国内篇を石川、海外篇を福島正実(福島が病に倒れたあとは設水研)が分担することになったのだから、原点に回帰したととれなくもない。
確かにこの体制は、通読すればこの1カ月(現在では2カ月)でどんな本が出たか、一目で把握できる利点がある。しかし、私はそれでは不満だった。
91年に大学に入学し、SF研で会誌の編集を担当したとき、何を措いてもまず目指したのは「長い書評を載せる」ということだった。1作品につき1頁。文字数は原稿用紙4枚程度。自分でも書いたし他の会員にも同じ条件で書いてもらった。しょせん学生の書くものだからクオリティには限界があったが、それでも他の大学SF研の書評に比べれば質量ともに充実したものを載せたという自負はいまでもある。
以来30余年。書き手としての私はファンジンプロジン問わず、80年代SFMの書評欄から受けた感動を再現したい一心で活動してきた。イタコの口寄せみたいなものである。サ終した「シミルボン」に書評をせっせと投稿していたのもそのためだし、いまもnoteに投稿しているのもそのためである。
何とか鈴木力というキャラを書評の中で立たせられないか、ということはいつも考えている。具体的には以前誰かに「お前の書くものは文学青年っぽい」と言われたことがあって、それなら思い切り文学青年してやろうとレトリックに凝ったり悪戦苦闘している。うまくいっているかどうかは、自信がない。
しかし書評というのは難しい。かつて丸谷才一は書評を、郵便切手の裏に街全体の地図を描くようなものだと言ったが、そういう技術的な問題を別にしても、自分の書いた書評には、当時の分泌物みたいなものが出てくれないのだ。
それが彼らとお前の才能の違いというものだ、と言われてしまえば黙って引き下がるしかないが、おそらくは死ぬまでああでもないこうでもないとイタコの真似事で書評を書いていくのではないか。50歳を超したいまではそんな予感がしている。(文中敬称略)