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語学学習の基本に「遊び」がなければ、それなりにしかなれないらしい

語学学習は楽しい方がいい。楽しい方がいいが、「楽しい」ということはどちらかといえば、薬味のようなもので、「なくても食べられるけどあったらもっといい」という程度に捉えていた。

私がこれまで日本語を教えるとき、また中国語教師として中国語を教えるとき「真面目に学ぶことこそ正義」という固定概念にとらわれていたのかに気付かされたのは、為末大さんの「熟達論」を読んだから。

本書では、熟達の過程を「遊」「型」「観」「心」「空」の5段階に分けており、あらゆる分野で熟達者のスタートが「遊」であると言い切っている。

遊びこそ、基本。遊びなくして熟達なし、というわけだ。

そこまで読んで、立ち止まって考えてみた。「授業にどうすれば“遊び“の要素を取り入れるんだろう」。

文法の習得のために、「ゲーム」を取り入れたり、子どものクラスなら歌ったり踊ったりのクラスは楽しいだろう。でも、そもそも、語学学習に楽しさは禁物だという考えを教科書と一緒にしっかりと携えて教室に来ている生徒たちを前に、ただゲームをして「あはは」と笑っているだけのクラスはどうなんだろう。「なんなんだ、このふざけたクラスは!オイラ帰る!!」とならないだろうか。

さらに本書を読み進め、「遊」の章を読み終わってみると、この部分が心に響いた。

面白いからやっているという感覚があれば、自分の心を守ることができる。

面白いから行うという感覚は一つの防護壁である。

何のためでもなく、ただやりたいからやっているのだと思い直すことができる。

これを頭で理解するのではなく、身体で覚えるために「遊」の考え方がある、ということです。

ということは、「遊び」とはクラスで教師が提供しなければならない、という類のものではなく、むしろ学習の前段階に来ているべきものなのかもしれない。

例えば、アニメを見て日本語に興味を持って教室に来る学生。それまではあくまで「日本語」は「遊び」だったわけだが、そういう基礎があって、そこに「型」という文法や語彙の学習を積み上げていくことになるのだ。ポイントは「この教室に来ているのも、基本は自分が面白いから」という思いが生徒にあるかどうか、なのだ。

では、「遊び」が語学学習の基礎にない生徒の場合どうしたらいいんだろう。興味が持てそうなドラマやアニメ、Youtubeなどの素材をお勧めしたみたり、生徒たちどうしで好きなアニメや映画、ゲームについて話してもらうのもいいだろう。

つまり、「クラスメートのみんなはそういうことで日本語を楽しみつつ、教室に来てるんだね」という感覚は、真面目な学生でも「遊びこそ基礎という見方も悪くない」という気持ちに多少ならせてくれることだろう。

「遊」の段階の次に、「型」の習得が来る。語学では、文法や文型、語彙の習得などの地道な学習が「型」にあたるだろう。教材を音読するなんていう伝統的な語学学習法もなんだか「型」っぽい。なんの興味もなく教室に来た学生が、まずは「型」からを習得しながらも、「遊」の部分も同時に構築していくこともできそうだ。そうこうしているうちに「遊」が「型」を後追いで超えてしまえたら、素敵なことではないか。

そんな地道な学習の日々で、初級、中級、上級と、それぞれの段階で楽しい、面白いと思えることを見つけていくことは重要だ。面白いことは進歩に応じて変化する。初級で笑っていたことを、中級になっても楽しめるとは限らない。例えば、初級でアニメの面白さに気づいている学生たちが、ただそこにとどまり続けるのではなく、今度は習った文型で作文したり、会話したりとアウトプットしつつ遊べるようになる。その日勉強した漢字を使って変な文章を作って友達に送ってみたりと、遊び方はいろいろありそうだ。また、上級になれば、簡単な落語の小噺を聞いてもらう、「すべらない話」のようなエピソードを実際に演じてもらってもいいだろう。

それぞれの時期で面白いと思えることを大切にしていくことで、スランプやマンネリや中だるみへの特効薬として、「遊」を持っておくことができる。

たとえ学習に飽きても、「遊」にいったん逃げることができるなら、なんとか持ち直して勉強を続けられそう。

これは、自分自身の外国語学習にもぜひ活かしてみたいと思っている。

「されど遊び」なんだなあ。


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Rick@言語屋
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