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ドゥニ・ヴィルヌーヴ「DUNE Part2」

 iphoneとイヤホンを繋ぐジャックを紛失してしまい、久しぶりにただひたすら最寄りから自宅までの15分間を歩くだけの時間が生まれたのだけど、2週間くらい前に見た映画「DUNE PART2」のことを不意に思い出した。絶賛の声が多いというか、あまりにも「劇場での大スペクタルを見逃すな!!」「今年の大傑作!!年間ベスト!!」みたいな、称揚しすぎる声が大きすぎる気がしてフラットに楽しめたかどうか定かではないのだが、いやぁでも不意に思い出すくらいなのだから楽しめたのだろう。

見終えてすぐ思ったことは「なんて気持ちが良い映画なんだ」で、それはストーリーもだし、映像もそうだし、ハンスジマーの音楽もそうである。今更説明するまでもないだろうが、筋立ては至ってシンプルで、王家に生まれたティモシーシャラメがDUNE1で色々あって王家を追われ、砂漠の戦闘民族に交じるところから映画が始まる。ティモシーは生まれ持った美貌とカリスマ性とバトルセンスで戦闘民族の中で頭角を表す。何より戦闘民族に伝わる予言の主人公と同じ道程を辿っているらしく、崇拝する者が増え、強大な一団となり、ティモシーの一族を追いやった者たちを倒し、そしてそれらを統べる皇帝まで下してしまう。

なんて素直な物語だ。それもその筈、DUNE1の時点で薄々知っていたのだが、原作のDUNEは1965年発売で、あらゆるヒーロー物語やSFの原典とも言えるようで、見ながら「スターウォーズじゃん!!」「仮面ライダーで見たことあるな!」と感じたのは当然だったらしい。ただDUNE2はそれらのヒーローものに留まらず、もっとでっかい話をしていた。ヒーローものを描く上で常套句になるのが「ヒーローは神なのかどうか」という問題で、これは「アイアンマン」でも科学と魔法は違うのかというテーマで語られていたし、「仮面ライダー鎧武」では主人公が神様になるし、「ウルトラマン」のあの表情は菩薩の表情=アルカイックスマイルだ。つまりヒーローは神なのか、民衆の中で宗教が生まれるんじゃないの?という問題提起だが、DUNE2はそこは割り切っていて、宗教の誕生のみにしかフォーカスしていないようにも見え、映画の中でティモシーシャラメは間違い無く民衆を導く救世主だ。全員がトロンとした顔で彼を見つめ、彼には神託をもたらす聖母マリアが背後にいる。唯一そこにカウンターとして機能しているのがゼンデイヤで、中盤から終盤にかけて、序盤かなり良い関係になったティモシーシャラメに苦々しい目線を送る。

おそらく監督はこのゼンデイヤの目線によってDUNE2をフラットに描こうとしたのだろう。ティモシーシャラメを運命や予言や親の希望に無謬に従う愚かな存在だと描こうとしている。「気持ち良い」と思わせないようにゼンデイヤというブレーキが備え付けられている。しかし、あまりにも画面のティモシーシャラメに説得力がありすぎる。広大な砂漠の中で逆光で影になる彼の横顔を見て、群衆の中で短刀を掲げるティモシーシャラメを見て、砂漠の中で海を見据えようとするティモシーシャラメを見てうっとりしない訳が無く。そのティモシーを中心に民衆が頭を垂れて、世界が動いていく。演出にティモシーシャラメが勝ってしまったらしいし、IMAXの画面の中でティモシーに首を垂れるのは正直めちゃくちゃ気持ちが良い。自分の中で信心が生まれていく。確かに、唯一無二の映画体験!!だ。


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