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ヴィクトル・ツォイの家族史(2)

ヴィクトル・ツォイの祖父、ツォイ・スンジュンは、非常に興味深い運命を背負った並外れた人物だった。1934-1937年、彼はウラジオストク第8小学校で教師をしていた。この学校には、スターリンの名を冠した演劇クラブの支部があり、カザフスタンの芸術功労者となるヨン・セニョンや、ウズベキスタンの功労俳優となるリ・ゲンヒなどを輩出している(なぜ中央アジアが関わるのかはこの後わかる)。

1936年、スンジュンはキム・ヘディンと結婚。彼女は1917年にウラジオストクで生まれた。ヴィクトルの祖母となる人である。彼女は、沿海州の州ラジオ委員会の朝鮮放送のコーラスで歌をうたっていた――孫が音楽に惹かれる一因かもしれない。

1937年は、ロシアの高麗人たちにとって劇的な年となる。日本との戦争が予想されることを理由に、彼らは中央アジアに移住させられたのである。日本のスパイが、ロシアに住む朝鮮人を装うのではないか、高麗人たちの中にも敵の手先となるものがいるのではないかと懸念されたのだ(歴史的な要因で朝鮮人たちのあいだでは反日感情が強かったというのに)。ウラジオストクの史学者エカテリーナ・チョルノルツカヤの著書『ソ連極東の強制移住』によれば、まさにこの朝鮮人たちが、ソ連で民族性による全員移住という政策の犠牲になった最初の人たちだった。1926年には、沿海州の人口の4分の1は朝鮮人で、いくつかの地区ではマジョリティとなっていた。ときにはスパイ活動をしたことが記録されてもいる。まず朝鮮人たちは、内陸部の国境付近へと移住させられ、1937年の秋に、カザフスタンとウズベキスタンへ全員が追い立てられていった。3万6千世帯、17万1千人である。賃金と退職手当が支払われ、家財道具と小家畜をもっていくことが許可された。チョルノルツカヤによれば、外国へ出たいと望む者を妨害することを禁止されていたという。そのせいで積極的な抵抗なしに済んだのかもしれない。

こうしてツォイ一家は、カザフスタンのクズィル・オルダ(現在のクズロルダ)に到着。そして1938年、カザフスタンでロベルト・マクシーモヴィチ・ツォイ――ヴィクトル・ツォイの父が誕生。一方、祖父のツォイ・スンジュンは、クズィル・オルダ国立教育大を卒業し、大学では優等生でスポーツマンのコムソモール員(共産青年同盟員)ぶりをアピールした。面白いことに、後に彼はNKVD(内務人民委員部)に入り、1943-1958年まで勤務している。一時期は防諜機関の将校を務め、サハリンのKGB支部の長でもあった。ロシア語と朝鮮語の知識が役立ったようだ。戦後、サハリン南部の領土がソ連へ移ると、島には、日本によって労働力として連れてこられた朝鮮人が多くとり残された。いうまでもなく、最初のうち彼らはロシア語が理解できなかった。ツォイ・スンジュンはメダルを授与されている。おそらく、戦時中に機関に勤務したことが功を奏したのだろう。

スンジュン夫妻は5人の子どもを授かり、ヘディンは「母親勲章」第2等を授与されている。スンジュンが1985年に亡くなったとき、孫のヴィクトルはすでに最初のアルバムの録音を終え、ソ連のスターへの道を歩きはじめたところだった、が、その道もわずか5年で潰えることになる。(つづく)

*元サイト↓4枚目の集合写真、最後列の左から2番目が13歳のヴィクトル・ツォイ、二列目の中央が曾祖母、その右側が祖父
https://dv.land/people/gruppa-krovi-dalnevostochnaya

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