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168 教員の私が「老い」を意識し始めたとき
教えることは楽しい。できればいつまでも教えていたい。そう思いながらずっと教師をしてきました。でもいつの間にか「老い」が訪れ、授業にも支障をきたすようになりました。「老い」は誰にでも訪れます。私も例外ではありません。そんな私が教員の仕事を通して「老い」を感じた例をいくつか挙げてみたいと思います。
教科書の文字が見えづらくなる
老眼はいちばん最初に感じたことです。そして大きな課題です。私は40代の終わりころから老眼が始まりました。老眼鏡を作ったのもその頃です。教科書やプリントを見るために老眼鏡をかけたり外したりするのがとても煩わしいです。
文字だけでなく絵も見えづらくなってきました。ある時「教科書の〇ページにモグラのイラストが描いてあるでしょ」と言ったら「先生、それ犬ですよ」と訂正されました。
教師用のテキストは拡大版がいいなと思いました。
漢字が思い出せない
板書していて漢字が思い出せないことが増えました。英語の教師なので漢字を板書することはそれほど多くないのですが、時に漢字も必要です。ひらがなで書いてばかりもいられません。生徒に聞けばよいのですがいてばかりいると呆れられます。デジタル黒板ではなく当時はまだ手書きの時代です。
ちなみに国語の先生はこんなことはないのでしょうか。
ことばがすぐに出てこない
漢字だけでなく、ことばそのものが出てこないことも増えました。「えっと、なんだっけ?」「ほら、あれ、あれ!」という日常的な現象が授業でも起きるようになってきました。
生徒の名前を忘れる
生徒の名前が若い時のようには覚えられず、覚えてもすぐに忘れるようになりました。若い頃に教えていた生徒はフルネームでしっかり覚えているのに、最近の生徒の名前はなぜかすぐに忘れます。
道で卒業生に出会った時など、顔は覚えているのですが名前が出てこないことも多いです。相手もそれに気づくのか「僕の名前覚えている?」と言って試そうとします。正直に「ごめん」と言って謝りますが、やはり相手はがっかりするようです。
夏休みの間に担任する生徒の名前を忘れたという同僚がいました。私だけではないんだとちょっと安心しました。
同じ話を繰り返してしまう
「先生、その話前にも聞きましたよ」 生徒にそう言われるまで気づかずに授業で話していた私はショックを受けました。「老いがとうとう来たか!」と思った瞬間です。
複数のクラスを受け持っていると前にも話したつもりで大事なことを話し忘れるという反対の現象もよく起きます。
生徒といっしょに走れない
若い時は体育祭で生徒と一緒に走ることが多かったですが、次第に走れなくなってきました。マラソン大会や球技大会も参加は無理です。下手に参加すると怪我をする恐れがあります。
掃除をさぼっている生徒を追いかけるなんて絶対無理です。
生徒が労わってくれる
「先生、そんな重いもの持って大丈夫?」と生徒に声をかけられることが増えてきました。優しい生徒は「持ってあげるよ」と言ってくれます。労わってもらうのは嬉しいですが気持ちは複雑です。
体育祭が終わって生徒といっしょに後片付けをしていました。テントを片付けているとき、「う~、重い!」「〇〇くん、ちょっとそこ持って」「どこ外せばいいの?」などと言ったら、「先生じゃ無理だよ」「そんなとこ持っちゃあぶないじゃん」「そこ外しちゃだめだよ」と言われました。挙句の果てには「おれたちがやるからさ、先生は休んでなよ」と言われました。「気持ちだけで十分だよ」なんて言う生徒もいます。どうやら足手纏いになったみたいです。
トイレの回数が増える
トイレの話で恐縮ですが、年をとるとトイレに行く回数が増えてきます。授業が終わるたびにトイレに行くこともあり、回数は明らかに多くなりました。授業中も行くようになったら潮時かなと思いました。
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教師にも「老い」は訪れます。かつて出来たことが出来なくなるのは悲しいです。でも教師の「老い」は「隠れたカリキュラム」にもなります。「老い」を素直に受け入れ、自らを生きた教材にするのも悪くないかなと思います。みなさんはどうなのでしょう。