46 見ているけど見えていない
ある年の暮れ、放課後に職員室で仕事をしていると近くの踏切で人身事故があったというニュースが飛び込んできました。現場の踏切は駅に一番近く、毎日多くの人が利用しています。私もよく通ります。学校にも近く、踏切を通って通学している生徒もいます。私は生徒が事故に巻き込まれたのではないかと不安になりました。
犠牲者は79歳のおばあさんでした。踏切を横断中に特急列車に跳ねられたといいます。即死だったそうです。翌日の新聞を読むと、おばあさんは足が悪いため踏切を渡り切れなかったということでした。同じような事故はその後も各地で起きています。その時は信じられませんでした。夕方のその時間は多くの人が踏切を通っています。その時も多くの人が行き来していたはずです。市内で通行量が一番多い踏切なので警備の人もいるはずです。警報機が鳴り始めてから列車が来るまである程度の時間はあったと思うのですが、だれもおばあさんに気がつかなかったのでしょうか。
警報機が鳴り、遮断機が下り始めた踏切で足の悪い老人が危なげな足取りで歩いている。自分だったらどうするだろうと考えました。駆け寄って手を貸す?引きずってでも踏切から助け出す?声をかける?誰かを呼ぶ?呆然として何もできない? おそらく私はオロオロするだけで何もできないだろうと思います。
翌日生徒たちにも聞いてみました。答えはいろいろでした。私は「おばあさんのような人を見たら助けなさい」と生徒に言いたいわけではありません。むしろ危険な行動はしないように言いたいです。自分も命を失う恐れがあるからです。現に、線路に落ちた人を助けようとして亡くなった人はいます。その人の勇気はすごいと思います。だれにでもできることではありません。でも、何も考えずに行動することほど危険なことはありません。だれかを呼ぶなどして、生徒には命を落としてほしくはありません。
その事故は何らかの理由で防げなかったのかもしれません。詳しいことはわかりません。だから警備の人や周りにいた人を非難するつもりはまったくありません。でも事故を耳にして考えたことがあります。事故そのものについてではなく、人間の「視覚」についてです。「見てはいるけど見えていない」ということです。目には映っているけれどそれを認識していないということです。すぐ近くのことなのに気がついていないということもあります。そんなことが私たちの周りにたくさんあるのではないかと思いました。
毎日一緒に生活している人なのに、その人のことが全然わかっていない。すぐ近くにいる人なのに存在に気づいていない。そんな経験はないでしょうか。昨今は他人に無関心な人が増えていると言われますが、私たちは自分のことで頭がいっぱいで周囲に目を向ける余裕が薄れているように感じます。私自身のことを振り返ってみても、「そう言えばあの時あの人は困っているようだった」「私に手を貸してほしかったのかもしれない」「確かにそうだった」と後になって思うことがよくあります。すぐ横にいた人なのに記憶にも残っていないことすらあります。その人が見えていないのです。
踏切を通りながら、おばあさんのことが見えていなかった人がたくさんいたのではないかと思いました。見ようとしなければ見えないことはたくさんあります。見ているのに見えていない。そんな世の中は怖いです。おばあさんのことを考えながらそんなことを考えてしまいました。