50歳過ぎて大学院に入った私が大変だったこと
「若い頃はこんなことなかったのに」50歳を過ぎて大学院で研究を始めた私はたびたびそう思いました。以前は当たり前のようにできていたことが次第にできなくなり、予想もしない体験をすることが増えたからです。多くが小さなことですが、戸惑いは大きかったです。
たとえば、英語の文献を読んでいてわからない単語が出てくると辞書で調べるのですが、同じ単語を何度も調べているのです。「さっき調べたばかりなのに」と唖然とすることがよくありました。何でもなかなか覚えられないですし、覚えてもすぐに忘れます。
図書館で本を借りるときのことです。貸し出し中の本は予約を入れるのですが、ある本を予約したとき「この本はすでに予約されています」と表示されました。自分が借りていることをすっかり忘れていたのです。
身体的な衰えへの対応も大変でした。たとえば教室の移動です。昼休み以外は授業の合間が10分ですが、広いキャンパスなので別の棟で授業が行われるときは移動に10分以上かかることがあります。若い学生はすたすたと速足で歩いていますが、私はもたもたしています。たびたび遅刻しました。走ることもありましたが50過ぎの身体には堪えます。科目を選ぶ時は移動時間も考えて選ぶ必要があることを認識しました。
同じ棟でも教室が何階にあるかということも大きな問題です。研究室のある棟は10階建てで、研究室は9階にあります。授業が多く行われる棟でしたが、古い棟なので小さいエレベーターが2機しかなく、5,6人乗ればいっぱいになります。研究室に急いで行かなければならないとき、エレベーターがいっぱいでしばらく乗れないことがあります。そんなときは階段を使いますが、9階までの階段歩行は試合前の強化練習のようでした。エレベーター内部には「学生はできるだけ階段を使いましょう」と貼り紙がしてあります。「私も学生だけど」と思いながら乗っていました。
身体的な衰えのひとつに五十肩がありました。40代の終わり頃から右手が上がらなくなりずっと治療を受けていたのですが、大学院に入学したころがいちばんひどかったです。そんな中で大学の健康診断を受けました。「手を挙げてください」と看護師さんが私の腕を持ち上げました。私は思わず「痛い!」と叫びました。「五十肩なんです」私がそう言うと看護師さんは「知らなかったわ。ごめんなさい」と言いました。知らなくても不思議はないです。若者には五十肩なんてないでしょうから。
目の衰えも何かと厄介でした。私はすでに老眼鏡を使用していましたが、文献を読むとき老眼鏡は必須です。でも教室のモニターやホワイトボードを見る時は老眼鏡をはずさないと見えません。さらにパソコンに向かう時はパソコン用の眼鏡にかけ直します。眼鏡をかけたり外したりするのは本当に面倒した。
学生が使っていることばにも戸惑いました。昔とずいぶん違うからです。たとえば「ゼミ」の発音です。私はそれまでずっと「ゼ」の音を高く発音していたのですが、若い人たちは平板化して発音します。昆虫の「セミ」のような発音です。最初はこれにすごく違和感がありました。周りがみんなそう発音するので私も合わせるようにしましたが、違和感はずっと残りました。
「お疲れさまです」「可能ですか?」にも違和感があります。前者についてはよく言われることですが、「こんにちは」の代わりに「お疲れさまです」と言われるとやはり「疲れてないのに」と思ってしまいます。メールの文頭に使われると特に思います。「していただけませんか?」の代わりに「可能ですか?」と言われるのも同じです。思わず「可能だけどしてあげないわよ」と意地悪な返事をしてしまいます。ことばが時代とともに変化することはわかっているのですが、変化についていくのは大変です。
通学も体力勝負でした。自宅から大学までは2時間近くかかりましたが、往復4時間の通学は身体にすごく堪えました。夜の授業を終えて帰宅すると深夜になります。特に、ゼミの後みんなで飲みに行ったりすると終電に乗り遅れそうになることがしばしばありました。キャンパスで走り、駅で走り、走ってばかりいたような気がします。また、夜は疲れているのでライナーに乗ることが多かったです。料金が余分にかかりますが疲れには勝てません。仕事帰りのサラリーマンが缶ビールのふたを開ける「プシュッ!」という音を耳にして「私も飲みたいな」といつも思っていました。
さらに、これは私個人の問題でもあるのですが、自分の経験が強く出てしまうことがありました。人生経験は若い人より長いですが、議論するときには経験ではなく理論に基づいて語らなければなりません。でも経験の中で蓄積された疑問や課題意識がつい前面に出て主観的な考えを述べてしまうのです。思いは文章にも表れます。論文にも個人の考えを記してしまうことがあり、「これはあなた考えですよね」とよく指摘されました。
いちばん大変だったのは母の介護との両立ですが、これについては日を改めて書きたいと思います。