77 学級通信が書けなくなった
教員の仕事は楽しいことばかりではありません。つらいこともあれば悩むこともあります。泣きたくなることだってあります。指導力のなさを痛感し自己嫌悪に陥ることも少なくありません。つらいことのひとつが生徒の心が見えなくなることです。自分が大切にしてる子どもたちの心。それが感じ取れなくなった時はとてもつらいです。
私にとって学級通信を書くことは精神的な作業です。事務的な連絡や形式的なお便りだったら自分の感情にそれほど左右されずに書けますが、ずっと続けている学級通信は自分の思いを伝えるものなので感情がかなり影響します。伝える相手はもちろん生徒です。生徒の「心」です。彼らの心が何かを感じ取ってくれると思うから、いや、感じ取ってほしいから書き続けています。そして何らかの手ごたえを感じるから休まず書き続けられます。心が見えている間は書けます。「気持ちはきっと伝わる」「理解してもらえる」という期待があるからです。でもある時それができなくなりました。生徒の心が見えなくなったのです。
1年生を担任していたときでした。生徒の心が次第に見えなくなっていきました。2学期の終わりごろからです。指導がうまくいかず、気持ちが伝わらないように感じました。1年生のこの時期は気持ちが緩んで生活態度にも問題が出始めるころです。いつしか教師も注意することが多くなり、指導も厳しくなります。許せないことを目にしたとき注意するのは当然ですが、生徒の中にはそれをうるさいと感じる人も少なくありません。その頃の私が生徒たちによく言っていたのが授業を大切にすること、人の気持ちを考えて行動すること、周りに流されずに生活することでした。みんなが真剣に授業を受けているときに勝手なおしゃべりで授業を中断させてしまう、たった15分間の清掃もやらずに遊び回る、食事中にみかんの皮を友達に投げつける、他人の弁当箱に箸を突っ込んで楽しむ、机や壁に落書きをする、そんなことをした生徒を注意するのは当たり前です。人の気持ちを踏みにじるような言動、人の心を傷つけるような行為を見かけたら注意をするのも当たり前です。周囲に流されて不適切な行動をしている生徒やいけないことをやっている生徒に「それは間違いだよ」と言うのは余計なことだとは思いません。
注意や助言に耳を貸さない人に向かって何度も同じことを言うのは壁に向かって話しているようでとてもむなしいです。人の心は壁ではないと思うから気持ちを伝えようとします。でも、その時の私は気持ちが生徒の心に到達していないように感じていました。決して多くのことを要求していないつもりでしたが、生徒たちの受け止め方は違ったようです。それまでとは違う反応が見られました。反発もありましたが私が気になったのは「無反応」でした。私の言うことを黙って聞いてはいるのですが、受け止めてはいません。聞き流すだけです。反発してくれた方が受け止めが感じられて嬉しいです。私には彼らのそうした変化が理解できませんでした。そして次第に彼らの心が見えなくなってきました。生徒たちが何を考えているのかわからなくなってきました。それまで見えていたものが見えなくなるというのは不安です。私の目が曇ってきたのだろうか。それとも生徒が変わったのだろうか。このままでは学級通信が書けない。私は学級通信を休むことにしました。
毎日続いていた学級通信が途絶えたことに生徒たちは戸惑っていました。心配してくれた生徒や保護者もいます。でも私の目的は毎日発行することでもなければ、数多く発行することでもありません。「ネタがなくなったから?」と聞く生徒もいましたが、ネタなど際限なくあります。「私たちがいけないからでしょ?」という生徒もいました。理由は一人一人に考えてほしいと思いました。わざわざ電話をくださった保護者もいます。ありがたいと思いながらも私の心は変わりませんでした。
気持ちを受け止めてくれる心が見えなければ私は書けません。書けば書くほどむなしくなります。でも生徒たちの心は信じたいです。「休刊」の意味を生徒が理解し、再び彼らの心が見えるようになったら学級通信を再開したいと思いながら私は学級通信を中断しました。