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こんなところにも戦争があった:延岡の特攻艇「震洋」格納壕

宮崎県延岡市の海岸に、太平洋戦争末期に本土決戦のため配備された水上特攻艇「震洋」が格納されていた壕がありました。震洋はベニヤ板で造られた小型のモーターボートで艇首部に炸薬を搭載し目標艦艇に体当たりする船です。「震洋」の格納壕は加計呂麻島でも見たことがあります。


「自殺ボート」と呼ばれた震洋(NHK「戦跡-薄れる記憶」より)


「太平洋を震撼させる」という意味をこめて名付けられた「震洋」は、太平洋戦争末期に海軍が開発した特攻兵器です。5メートルほどのモーターボートで、250キロの爆薬を積んで敵艦に体当たり攻撃をする作戦でした。

ベニヤ板を貼り合わせた船体は、戦局が悪化し、物資が不足する中でも量産が可能でした。6000艇あまりが建造され、本土防衛のために広く配備されていました。

しかし、訓練中に船体に穴が開いて沈没したり、出撃しても、敵艦にたどりつかなかったりして、数多くの命が、戦わずして失われました。

米軍からは「Suicide Boat(自殺ボート)」とも呼ばれていた震洋の犠牲者は、2500人以上にのぼります。大海に浮かぶ木の葉のようなボートで体当たりを果たす無謀な作戦が行われていたのです。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_67.html


延岡にもあることは今回現地を訪れて初めて知りました。
延岡市赤水町の入り江近くに五つの大きな穴が掘られていました。一部は草で覆われ中を覗くことはできませんでしたが、ダイナマイトを爆破させて掘削したという穴は縦横3メートル、奥行き40メートルほどの大きさです。ここには本土決戦に向けて約25隻の水上特攻艇「震洋」が格納されていたと言います。

配備された震洋は、ベニヤ板で造られた2人乗りの小型モーターボートで、最高時速約60キロ。船首部分に250キロ以上の爆薬を積んで敵艦に集団で夜襲をかけ、体当たりする作戦だったと言います。この地には長崎県で訓練を受けた第116震洋隊が駐在したそうで、整備員らも含めて200人弱の規模だったと言われます。近くの名水小学校を基地にし、周辺には燃料庫や弾薬庫などの施設も造られていたそうです。

1945年8月10日、震洋隊に「即時待機」の指令が出され、隊員たちはいつでも出撃できるように備えていましたが、結局加計呂麻島と同じように出撃しないまま終戦を迎えました。

 

壕の前に設置された説明版に若き特攻隊員たちの声が記されていました。その中の一人の名前が私の目に留まりました。かつてTBS(JNN)のニュースキャスターとして活躍し、参議院議員も務めたジャーナリストの田英夫さんです。「ニュースコープ」は私もよく見ており、田さんが伝えるベトナム戦争のレポートは今もよく覚えています。

その田さんが「震洋特攻隊」の艇隊長としてこの地にいたのです。当時22歳でした。終戦を知りながら「最後まで戦う」といきり立つ隊員に対して「死ぬのだけが国のためではない。生きるのだ。生きて国を再建するのだ」と田さんは言ったと記されていました。ジャーナリストの田さんらしい言葉だと私は思いました。


壕の脇に季節外れの赤いハイビスカスが咲いていました。戦争当時も花は咲いていたのでしょうか。

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