ノスタルジック京都:古い長屋に住む
家族で暮らしていた家は古い家をリフォームしたもので、8軒の家がつながった長屋でした。明治生まれの祖父母が市営住宅を買い取って住むようになりました。結婚した両親も住み兄と私はそこで生まれました。その後父の転勤で家族が京都を離れるとそこには祖母が一人で住むようになりました。祖父は私が生まれる何年も前に他界していますので私は会ったことがありません。
私が中学3年のとき家族は京都に戻ります。家をリフォームしますが、リフォームを始めるまでのわずかな期間私たちは古い家で過ごしました。私にとっては過去にタイムスリップしたような生活でした。間口が狭く奥行が深いいわゆる「うなぎの寝床」と呼ばれるつくりの家です。玄関の開き戸を開けると2畳ほどの板敷きの上がり框があり、その先に4畳半と8畳の和室が続いています。8畳の部屋はメインの座敷で床の間があり、客間として使われていました。客間に面して板塀で囲まれた庭があります。狭い庭ですが木が何本か植えられ、小さな灯篭も置かれていました。
写真が残っていないので借用したイメージです↓
玄関の脇に勝手口があり、入り口は木の引き戸になっています。開けると奥の庭まで続く通り土間があります。土間は石の三和土になっていて土足で歩きます。普段は下駄を履いていました。土間には台所があり、タイルづくりの流しと薪を使用する大きな窯がありました。祖母は窯を「おくどさん」とか「へっつい」と呼んでいました。土間の天井は高く、屋根には天窓がありました。
土間の入り口(イメージ)↓
かまど(イメージ)↓
土間の突き当たりにトイレがあり、庭にも通じていました。だから部屋からトイレに行く時は土間に降りて下駄を履いていきます。もちろん水洗ではありません。手も手水鉢の水で洗いました。トイレの脇には南天とヤツデが植わっていました。風呂はないので近くの銭湯に通いました。
2階にも4畳半と8畳の和室があります。上がり框の脇にある狭い階段で上がります。階段は隣の家と接しており、薄い板1枚で仕切られているのでお互いに声がよく聞こえます。ある日、夜中にすごい音が聞こえました。誰かが階段から落ちたようです。直後に「だいじょうぶかぁ? 気いつけなあかんでぇ」という声も聞こえました。翌朝母がお隣さんに聞いたところ、落ちたのはお客さんだったそうです。私の声も聞こえているのかもしれないと思い、その後は大きな声を出さないように気をつけました。
2階の8畳間にも床の間がありました。祖父がいた頃は祖父が書斎として使っていたそうです。仏教学者だった祖父は冬には火鉢で手を温めながら執筆していたといいます。出会ったことのない祖父ですが、部屋にいるとそんな祖父の姿が見えるような気がしました。祖母が一人で暮らしていたときは2階の二間を若い夫婦に間貸ししていました。
実家があった場所の最近の様子
右側が家のあった並び、反対側は向いの並び↓
長屋はひとつのコミュニティーでした。通りを隔ててそれぞれ8軒の並びが向かい合い、「隣組」と呼ばれていました。隣組は顔なじみで「向こう3軒両隣」は特に結びつきが強かったです。何かあると隣組みんなで手伝います。昔から住み続くけているので大人でも名前で呼び合っており、母も「〇〇ちゃん」と呼ばれていました。
夏の朝は「打ち水」で始まります。凛とした朝の空気の中で各家の人が自宅前を掃き清め、バケツや桶の水をひしゃくで撒きます。他県から来た人の中には「自分の家の前だけでなくついでに隣の分もやってあげればいいのに」と思う人もいるようですが、むやみに他人の領域に踏み込まないというのが京都人の流儀のように思います。人々の結びつきが強い一方で個を重視する、そんな気持ちが「打ち水」という日常の習慣の中にも感じられました。
赤いバケツの防火用水も順に回ってきました。長屋ですから火事になったらあっと言う間に類焼します。「バケツの水なんか役に立たないのでは」と最初は思いましたが、防火意識を高める機能があると考えるようになりました。長屋なので陽はすぐに燃え移るので防火は大事です。
毎日いろいろな行商人がやって来ました。ほとんどがリヤカーで来ていました。上賀茂からは野菜を売りに来ましたし、花や魚を売る人も来ました。夕方になると豆腐売りが「パープ、パープ」とラッパを鳴らしながらやって来ます。琵琶湖で採れたシジミのケースを大きな風呂敷に包んで担いで来ていたおばさんもいました。焼き芋や夜鳴きそばの屋台も懐かしいです。
毎朝托鉢のお坊さんがやって来ました。お坊さんの声が聞こえると祖母や母は土間の入り口から駆け出していって、喜捨のお金を渡していました。お坊さんの読経の声と母たちの下駄の音が朝の風景にしっかりと溶け込んでいたように思います。