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103 学校は横並びを重視する

授業での工夫が評価され研究授業をしようとしたところ、「他のクラスと差がつくから」という理由で中止を求められたれたという記事が新聞に載っていました。記事によると、小学校に勤務して6年目の男性教師は子どもの学力を高めようと日々の忙しい校務をこなしながら教材研究に励み、授業改善に取り組んでいました。研究授業もたびたび行い、その努力が報われてより大きな場で研究授業を行うことになったのですが、学年主任からストップがかかったというのです。同じクラスで何度も研究授業をすると他のクラスの授業と質的な差がついてしまうという理由からでした。教師は「表面的な平等が優先され、より質の高い授業を受けられたはずの子どもの可能性すらつぶしている」と感じその後教師を辞めたそうです。

授業の質の差とは具体的にどういうことだろうと私は考えてしまいました。生徒の学力差でしょうか。教師の力量差でしょうか。あるいはそれぞれのクラスに対する周囲の評価の差でしょうか。

研究授業をやって学力差がつくのであれば、研究授業から学んで他のクラスも学力が高まるようにすればよいはずです。そもそも研究授業をやると学力差がつくという根拠がはっきりしません。

教師に力量差があるのはうなずけます。でも、これも研究授業を見てそこから学べば指導力は向上し、学力の向上につながります。むしろ望ましいのではないでしょうか。それが研究授業の目的だと思います。

おそらく学年主任が言う「差」とは教師に対する評価の差なのではないでしょうか。特定の先生が高い評価を得て、教師の力量差があからさまになることを学年主任は危惧したように思います。現に優秀な教師が周囲の嫉妬ややっかみを受けるという話はよく耳にします。高い評価を得ている教師は優れた技術をたくさん身につけているでしょうから、参観者はそれを積極的に学べばよいだけです。公開授業は絶好の学びの場です。それなのになぜ研究授業を行わないという方向に話が進むのかが不思議です。

でも、学校ではこのようなことは少なくないように思います。たとえば毎日のように学級通信を出している教師が「学級通信なんてだれも読まない」「出すだけむだ」「紙くずになるだけだから紙がもったいない」「自己満足」などと陰口を言われることがあります。挙句の果てには、「毎日出せる人はいいが、出せない人もいるのだから毎日出すのはやめてほしい」と学年主任から言われた人もいます。毎日出すのがよいというわけではありませんが、毎日出して悪いということでもありません。毎日出せない人がいるのはわかりますが、だからと言って毎日出すのをやめさせるというのは理不尽に感じます。担任にはそれぞれの考えがあってよいと思いますし、学級通信だって担任がそれぞれのやり方で出せばよいと思います。もちろん出さないという選択肢もあります。ちなみに私も「学級通信を書く時間があっていいね」と冷ややかに言われたことがあります。

また、放課後クラスの生徒の補習をしていた担任が、他のクラスと差がつくからやめてほしいと言われたことがあります。部活の指導で放課後そのような時間が取れない担任もおり、不公平になるからだそうです。

さらに、保護者の要望で平日の夜に学級独自の懇親会を開こうとしたら、ストップをかけられたという話も聞きました。やはり特定のクラスだけそのようなことをしてもらうと「差」が出るからという理由でした。

よいことをしようとしてもそれが止められる。ベクトルがなぜプラスの方向ではなく、マイナスの方向に向かうのでしょうか。

こうした学校の体質は生徒の指導にも表れます。多様性の尊重が謳われる一方で、全員同じように行動することが求められ、違うことをすると「勝手なことをしてはいけない」「和を乱すのはよくない」と注意されます。

横並びを重視する学校の体質を強く感じます。



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