4年ぶりのオーストラリア:英語がうまく話せなくても
久々の海外だったので英語がすぐに出てこなかったりして困ることがあるのではないかと思っていました。海外に出かけることは多く、オーストラリアにもたびたび行って英語を使ってはいましたが、コロナ禍以降はほとんど使うことがなかったからです。言語も使わなければ力が落ちます。
でも実際にそれほど困ることはありませんでした。私が英語を話せるからではありません。私の会話力などたいしたものではありません。困らなかったのはオーストラリアには英語ができなくても何とかなる環境があるからです。英語がうまく話せなくても気にしなくてよい雰囲気もあります。
移民が多いオーストラリアでは英語を母語としない人がたくさん生活しています。共通言語は英語ですが、町で聞こえてくる言語は英語とは限りません。英語はもちろん広く使われていますが、話されている英語は多種多様。文法的におかしな英語だってたくさん耳にします。英語を母語とする人でも「あらっ?」と思うような英語を話していることがあります。だから私も気軽に英語を話しますし、間違えたって全然気になりません。
現地に着いてからは耳がすぐに慣れてきました。話すときもそれほど抵抗を感じることなく言葉を発せます。もちろん聞き取れないことはしょっちゅうありますし、言いたいことがすっと出てこないことも少なくありません。でも英語を使うことに対するためらいはありません。ためらう必要を感じないのです。うまく話せなくても、きちんと聞き取れなくても周りの人がそれを受け入れてくれるからです。私の言いたいことを理解しようと努めてくれる雰囲気があります。
私自身は英語を話す時に頭の中で英文を考えたりすることは極力避けています。言いたいことがあったらすぐに言葉を発するようにしています。「なんて言えばいいのかな?」などと考えたりすると話すことへのためらいが出てくるからです。すんなりと言えないことは当然あります。単語が出てこないこともありますし、構文がめちゃくちゃになることもあります。それでも気にせず話します。
たいていの場合、相手は私が何を言おうとしているかわかってくれます。あるいはわかろうとしてくれます。推測してくれますし、わからないときは「こういうこと?」と確認してくれます。だから意図は何とか伝わります。当たり前ですが口に出さなければ何も伝わりません。
私が聞く立場に立つ時でもたいていの人は私がわかるように話してくれます。わからなければ聞き返せばよいですし、それでもなお伝わらなければわかるように言い換えてくれます。わからないのにらないままでいる必要はありません。ましてやわからないのにわかったふりをするのは無意味だと思います。
少なくとも私が出会ったオーストラリアの人は言語に対して寛容な人が多いように思います。間違った英語を話しても受け入れてくれますし、コミュニケーションを取ろうとしてくれます。ましてや変な(?)英語を話したからと言って怪訝な顔をする人はいません。多文化社会で暮らす人たちの言語に対する寛容さを感じます。もちろんすべての人とは言いませんが。
一方で日本に目を向けると、英語が評価のものさしにされることが多いように思います。英語が話せるか、どんな英語を話すかが評価されるのです。もちろん学校の教科としての英語力や仕事で求められる英語力を評価することはありますが、日常的な場面でも英語の評価が行われているように感じます。「英語ができるから優秀」「英語が話せるからすごい」「発音が変」「癖のある英語でわかりにくい」などと言うのはその表れではないでしょうか。
私自身に関して言えば、日本にいる時の私は英語を話すことにちょっと抵抗があります。私が英語教師だったからかもしれませんが、周囲から評価されているように感じることがあるからです。「英語ができない」と言う人に小さなミスを指摘されることがあります。「英語でなんて言うの?」と聞かれてわからないと答えると「英語の先生でも知らないんだ」と揶揄されることもあります。私だってミスもしますし、知らないこともたくさんありますが、それが許されない雰囲気を時折り感じます。「英語が苦手」と言いながら素晴らしい英語を話す人もいますし、「英語ができていいね」と言う一方で「英語だけできてもね」と言うコンプレックスの裏返しのような言葉を聞くこともあります。
日本では英語がコミュニケーションツールとしてよりもステイタスシンボルあるいはファッションアイテムのひとつになっているように感じます。学校でも生徒たちは「英語ができるとかっこいい」とよく言います。カッコよさを求めて英語の勉強をするのもモティベーションにはなるでしょう。日本では英語は共通語ではありませんが、英語はできないよりできた方がいいでしょうし、英語ができれば何かと有利です。でも、私の周囲を見回すと英語があまりにも特別視されているように感じずにはいられません。「英語至上主義」とまでは言わなくても、英語が話せることが何よりも大事だという思い込みを感じます。幼児の頃から子どもに英語を習わせる人が多いのもその表れではないでしょうか。かつて文科省の某視学官が講演会で「これからは英語ができなければ生きていけない」と言うのを違和感を覚えながら聞いた記憶があります。
久しぶりに海外で英語を使いながらいろいろ考えてしまいました。個人的な思いの強い記事になってしまいましたが、さらりと読んでいただけたら幸いです。