【 わたしと分人主義 】
重い問題を抱えながら健康に生きるというのが長年のテーマになっている
奇しくもわたしは自死遺族になってしまったので 逃れられぬ命題として 考えざるを得なかったのだが、近年 地球温暖化 環境汚染等 誰の身にも重い問題はのしかかっており、今こそ このテーマを共有し分かち合えるのではと期待を寄せている
健康はストレスと対極関係にある。それは正しい認識だろう。しかしどうしても逃れられぬ状況に陥ったとき 人はどういう行動をとるか
ひとつはスルーである。完全無視でじぶんとは何ら関わりのなかったものとして思考から抹消する。程度のひどい場合など家族事や恋人とのやりとり、いま目の前にいる話し相手にさえ生返事だけでスルーしている
もうひとつが共感だろう。スルーの対義語になってはいないかもしれぬが、いちばん的を得た言い回しだ。ストレスある事象に対して真っ向から挑んでいく
そもそも大なり小なりストレスは何事にもつきまとう現象である。それをストレスと感じなくしているのは意志の強さ、関心のあるなしではないか。打ち勝とうとする意欲と関心の深ささえあれば たとえどんな苦難であろうと乗り越えられる
ただやはり できるものならストレスなく過ごしたい。それはどの人間にも共通する課題だ。それがスルーできる環境にあれば、誰だって避けるに決まっている。自分と無関係の難題なら尚更だろう
しかし問題は、自分にとって不可欠な難題を抱えた者たち である。スルーしたくても自分の身に起きているストレスは拭いきれない
たとえばわたしのような自死遺族、犯罪の前科者、親に逮捕歴がある者、いじめに遭った者、虐待DVを受けた者、性被害のトラウマを抱える者、戦争のある国ならば帰還兵などもそれに当たろう
その先の人生には常に暗い影が付きまとう
人は重たい話を嫌うものである。身の上を話すと「あなたの話は重すぎる」といって敬遠された経験が山ほどある。もちろんわたしだけではない。重度の障がいをもつ人など 重さでいえば決して軽くはないはずだ。それを何の中身にも触れず「重たいから」とそんな単純な理由だけでスルーするなど身もふたもない
いったいどうしろというのだろう
我々にはもう 幸せに健康に生きられる権利などないのだろうか
わたしはずっと考えてきた。悩んできた。そうしてやっと一筋の光をつかんだのである
結論を言おう
分ければいいのである。人に宿る人格が一つと考えるから行き詰まるのである。人間誰しも 明るい一面もあれば 暗い一面もある。自分を騙すから抑圧されストレスが溜まるのだ
その時その時 自分の気持ちに正直に生きてみる
幸いにも今の世の中 仮想や何やらいくらでも顔が作れる。過去 役者にしか許されなかった演じる思考回路が 今や万民に浸透しているではないか
裏アカ上等。後ろめたい不倫不貞などに利用するのではなく もっと切実に 自分が潰れないよう 自分の生きる道筋として 顔を幾らでも持てばいいのである
二つの顔が重なったとき、それに耐え得る理解者にだけ両方の顔を示せば良い
陰と陽
ほんとうはどちらも大切で どちらを表すも人間にとって必要なこと。それを社会が許さないから 闇堕ちして自殺する人間が後を絶たないのではないか
われわれはすでにもう地球規模で重たい問題を抱えてしまっている。つまり 人類全体が拭えぬストレスを持つ
くれぐれも それをスルーするような愚かな人間にだけは なってくれるな