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まさか鎌倉でクリエーターをやるとは、地域に大きく刮目して過ごすとは
私の人生設計は、生まれながらに発達障害を持っていたこと、そして親が転勤族であったこと、によって、「波乱の人生」が運命づけられていた気がする。
最初に結論を述べてしまおう。
私は、今、ほんの10年前まで、まさか住むことになろうとは思いもしなかった、神奈川県鎌倉市に単身、住んでいる。
そして、昼間の所属先もあるのだが、その一方で、遂に、クリエーター(ライター)としての一歩を歩み出した段階であり、地域に関する記事を今後、多く書いていくので、ほんの数年前まで、住むということが信じられなかった鎌倉の土地で、地域社会に大きくアンテナを張って暮らしている。
そして、いま、本当に幸せだ。
このまま順調にいけば、今までの人生での苦労が報われるのではないか。
そう、思っている。
私は、親が転勤族だったので、幼い頃から北陸や静岡など何か所かで育った。
幼い頃から、最初に入学した小学校の図書館に良く籠っていたり、本を読んだり、自分でもちょっとした物語を書いたりしていた。
小学校の頃の夢は「SF作家になること」だったのを、覚えている。
小学校の卒業文集にもそれを書いた。
しかし、結局は「幼き日の夢」であった。
結局、中学以降になると、勉強は出来ない、周囲に馴染めない自分の特性、そこから来る(恋愛も含め)経験不足、に徐々に気づいていく・・大体にして、私は自分で言うのもなんだが、「まじめすぎる」一面があり、そこが長所でもあり、場合によっては欠陥だったと思う。特に、モノを書く人、なかでも物語を書く人で、大成した人は、中には真面目一徹な人もいたが、日本の文豪たちを見ても破滅的な私生活を送っていた人も多く、そういった「一筋縄ではいかない」一面が、創作活動を支えていたことは間違いがないのだ。私は、自分の「残念ながら、実は足りない部分」を知っていく。
現実を知ったそんな中で、大学も「経済学部」に進学し、適当に「遊びこそが本分」のような4年間を送った。
しかし、卒業後、最初の就職先で壊滅的にうまくいかず、半年持たずに退職して実家に引き取られることなり、そこで「今後」に向き合うことになる。
その時の親元は八王子だったが、そこできっかけがあって知的障がい者福祉の法人を手伝うようになって、「人から直接喜ばれる嬉しさ」を知る。
その後、2年間、知的障がい者福祉の仕事をして過ごした日々こそ、今に至るまで私を支えていることは間違いない。
その後、環境の変化を自分の中で消化しきれず、メンタルも病んで、岩手県に戻った親元に戻ったが、ここでも「人に、特に立場の弱い人に」喜ばれることをしたい、という想いは、常に持っていた。
知的障がい者福祉に最初はとことんこだわっていたが、やがて自分がメンタルを患っていたのでそちらの活動も始め、その中で身体障害の人や、視聴覚のハンデを持った方(視聴覚の両方にハンデを持つ、盲ろう者も含めて)とも多く付き合い、それぞれの困りごとを生の声として知ってきて、多くの人々に自分こそが育ててもらったと思っている。この場を借りて、全ての皆さんにお礼を言いたい。ありがとうございます。
そんな私だが、数年前、伝手があって「鎌倉移住」という人生の選択肢が沸き上がった。
私は、まず、車を動かせないから地方では何者にもなれないことは自覚していたし、最初、話があったのは対人援助だったので、「願ってもない話」だと思い、準備期間を経て、3年半前に鎌倉へ移住した。
そこから、いろいろなことがあった。
一言で集約すると、私の甘さも突きつけられ、自分の汚い心のせいで、自分にも、援助した相手にも不幸を生み出したと感じていた。実際、そうなのかはわからない。
そして、そこの法人の人、そして外部の人、いろんな、そこによって全く違う「多くの人の価値観」を聞いていくにつれ、改めて「今後、どうやって生きるか」をまた考えることになった。
変な言い方だが、私はストレス耐性も弱く、思考回路にも癖が強くて、間違いなく、「組織」の枠の中だけで、人生設計をする生き方は、不向きだということは、ここ数年で自覚を強めていた。
ならば、どうするか?
1人暮らしだし、親も年老いて、頼れる感じではないし、どうするか?
では、「自分で、数少ないストレングス(強み)を活かせて、社会に仕掛けていこう」と思っている。
そのために、noteも始めた。
文学賞への応募なども始めている。
そしてその中で、やはり「人脈は宝なり」、友人からコラムライターの依頼が来た。もちろん、有償である。
つい先日、第一回の記事がその会社のHPに公開された。
ついに、幼い頃からの夢、「モノを書く仕事」の夢が実現されたわけだが、全くこんな日が来るとは、思春期以降は、想像だにしなかった。
そして、数年前までまるで知らなかった鎌倉で、地域のコラムライターになったこともあって、今、地域に大きくアンテナを張って日々を過ごしている。
今の状況を一つの足掛かりに、今後、「モノを書く仕事」を増やしていきながら、鎌倉と言う土地で、多くの人を喜ばせたいと思う。我ながら、そこの想いは不変のようだ。
今後も遅まきながら、「なりたい自分」になるために、少し進んでいきたい。