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WD#112 「エモい」撲滅委員会

卒業式。何年も苦楽を共にしてきた友人たちといろんな言葉を交わして、アルバムにたくさんメッセージを書き合う。

一旦家に帰り、友人何人かとご飯に行く。ここからみんなどうするのか、などという話をしながら、無駄にファミレスに長居したりする。

気づけば外は暗くなっていて、家に帰ってその疲れからすぐに眠ってしまう。

翌朝、ふと目が覚めるといつもなら学校に行く時間を過ぎていて一瞬慌てるもの、自分の机の上に置いてある卒業証書の入った筒を見て、ああそうだ、自分はもうあそこには行かないんだ、と思う。

さあ、では皆さんに尋ねたい。あなたはこのときの感情を何と表現するだろうか?


深夜。一人暮らしのあなたは、タイミングが悪く溜まっていた洗濯物を抱え、近所の24時間営業のコインランドリーへ向かう。

店舗を照らす蛍光灯の周りを蛾が飛び交っている。店内には他に人はいないが、勝手に回っている洗濯機が2個ほどある。おそらくどこかに行ってるか1回帰ってるんだろうな。

テーブルには見たことがない雑誌と2年前くらいのジャンプが雑多に置かれている。洗濯機の上に置かれたカゴが振動でカタカタ言うのと天井につけられた申し訳程度の扇風機以外に音はしない。

回り続ける洗濯物を眺めながらボーッとしている。たまに横の道を大型のトレーラーが走り、店内全体がさらに少し揺れ、ヘッドライトが店内を一瞬塗り上げる。

さあ、では皆さんに質問です。あなたはこの状況を何と表すだろうか。








「エモい」とか言ったりしてねえか?




今回は今ギクっとしたあなたの腐れ切った言語中枢を矯正するための回である。





私は「エモい」という言葉が嫌いで仕方がない。本当に。普段話している相手が「エモい」という言葉を使ったら「ちょっとやめようか」と言うくらいに嫌いだ。もうめんどくせー理屈クンだと思っていただいて構わない。あなたたちがどう思うかなんて関係ない。私が嫌いなんだ。ただそれだけなんだ。

何が嫌いなのかスッキリ言い表すとするならば、「サボっている」から。

何をサボっているのか、そんなのもう分かってるでしょ。「言語表現」だよ。

さっき書いた2つの事例。よくある「エモい」状況かなーと思って何となく書いてみたが、この2つが同じ「エモい」という言葉に収束してしまうならば、この2つのシチュエーションは同じ感情になる状況になってしまわないか?

卒業式翌日のどこか寂しいようで爽やかな虚無感と、深夜のコインランドリーの静寂さと無機質さに、果たして同じ感情が湧くのだろうか?

言葉とはそういうことだと思う。言葉はある事象を認識するためにある。だから言葉はたくさんある。辞書はあんなに分厚くなる。

いまだに知らない言葉にはよく出会う。国語の問題を解いているときや、本を読んでいるときなど、その出会いは至る所で頻繁に発生する。そしてその度に脳の資料室にその言葉をファイリングしていつでも取り出せるようにする。みんなこうやって言葉を覚えてきたじゃないか。

「エモい」という言葉の容量は凄まじい。さっき挙げたような全く異なる状況をも言い表すことができる(厳密にはできていないと思うが)。このままだと、感情を表す日本語はどんどん「エモい」に吸収され、最終的にはご飯を食べても「エモい」、クタクタになって家に帰ってきても「エモい」、腹立たしいことがあっても「エモい」、というふうになる。そしてこうなる未来は案外近いのかもしれない。

言葉はタピオカじゃないから、流行が残りやすい。まあ死語と言われる言葉もあるけど、当分「エモい」は死なないだろうな。もはや流行というより、新登場のキャラクターになった。期間限定で使えるキャラではなく、アップデートにより常設されたキャラクター。

だからこそ、この言葉の浸透力は恐ろしい。



そもそも「エモい」に厳密に意味は定義されているのだろうか。いや、言葉だから定義されてないと言葉として使えないんだけど、1回調べてみる。

「感情が動かされた状態」、「感情が高まって強く訴えかける心の動き」などを意味する形容詞として用いられる。

Wikipediaより

いやいや、ちょっと待てよ。なあ。

感情を表す言葉の意味が「感情が動かされた状態」なことあるか!?!?そんなもん喜怒哀楽全部じゃねえかよ。感情が動かされて「感情が動かされたー」って言うの?そんな気持ち悪い実況誰が求めてるんだ?

まあ言葉の意味は変遷するので今はそういう意味じゃないのも何となくわかる。おそらく目の前の情景にあるどこかノスタルジックな感じとか、感傷的な感じとか、そういう側面を担う言葉になっているという察しはつく。

ただ、それを表す言葉が「エモい」なわけないだろ、とは強く思う。原義のemotionalにそんな意味は無いし、おそらく「エモい」という言葉の成立は、現在の意味の形成よりも早かったのだろう。

どういうことかというと、なぜかはわからないがとにかく先に「エモい」という言葉ができて、感動するみたいな意味で使われていたとする。そこで、ちょうど今回例に挙げたような「絶妙に言語化しにくい雰囲気」(それを言語化するならノスタルジックや感傷的という言葉になる)を表す言葉として使ったら便利なんじゃないか、ということになったのではないか。

要するに「エモい」という使い勝手のいい言葉が、ちょうど担い手が少なかった感情表現にまんまと利用されたというわけだ。かわいそうに。


確かに、卒業式翌日や深夜のコインランドリー、修学旅行で朝早く駅に行く時のまだ暗い空や河川敷の土手に一輪だけ生えたタンポポなど、パシッと一言でその情景から感じる情緒を言い表すのが難しいシチュエーションは五万とある。

でも、難しいからサボるのか、というとそれは別の話だ。世の中にたくさん言葉があるのは、可能な限り世界を表現するためだと思う。そうして人間がその世界を自分の中に落とし込みやすくするためのツールなのだと。

「エモい」という言葉は、そのような操作を怖いくらいに適当に行う。感情を言葉にするということが、その景色をカメラで切り取るような行為だとすれば、「エモい」という言葉で切り取られた景色はどれもボヤけていて区別がつかない。最初に挙げた2つの例は、景色としてまるで異なるが、「エモい」というボヤけたフィルムではほとんど同じ事象として扱われることになってしまう気がする。

内容の全く異なる映画を観て、その2つとも「感動したなー」というそれだけの感想を残したとしたら、1年後くらいにその映画を思い出しても詳しく思い出せないと思う。もしかしたら「おんなじような映画だったな」と思ってしまうかもしれない。言葉の収容力とはそれほどのものだ。

皆さん、今「エモい」と思う情景をいくつか思い浮かべてみてください。その情景を、それ以上の基準でグループ分けできますか?多分あまりできないと思う。でも仮に「郷愁的」とか、「感傷的」とか、そういう言葉とそのニュアンスを把握していればグループ分けできると思うんですよね。「エモい」という表現は、「エモい」という表現をした時点でもうそこまでで、そこからさらに目の前の情景を味わうのは不可能なのだ。



こんな無責任な言葉が巷で使われているのは、現代人の性(さが)なんだと思う。映画を1.5倍速で見て、曲のイントロをスキップして、ショート動画しか見なくなって、そうして現代人は生き急いでいる。その先に何があるのか。待つのは死、ただそれだけだというのに。

そのような現代人は、もはや感情表現すらも時短を望んでいて、そのためにありとあらゆる「言語化しにくい情景」を「エモい」という言葉に押しつけている。そしてそれで満足し、また別の情景を「エモい」と処理する。最終的に頭の中はうっすいカルピスみたいな記憶しか残っていない。そして息を引き取る時も「エモい」と思いながら死ぬのだろう。現代人とはそういう生き物なのだ。

言語表現というのはモノやコトを認識するためだけに行うのではない。自分なりの言葉で対象を切り取って保存するという、表現の場の最小単位でもある。そしてそれが、自分が自分であるための最後の抵抗になる。自己表現の術を失った人間はもはやただの肉塊だ。

つまり、現代人(しんどい言葉を使えば、Z世代)はただの肉塊になりつつある。そういうことだ。これはもう極論ではない。



じゃあどうすればいいのって話ですよ。「エモい」を封じられた今、何か代替案を出さないとまあ割に合わない。

そこで、私は比喩を提案してみる。全く別の事象を用いて、とある事象を表現する方法。ある意味で言語的近似と言ってもいい。

私はそんな比喩がとても好きだ。本を読んでて「うわーこの比喩いいなー!」と思うことが度々ある。思い返せばさっきも私自身比喩を使用していた気がする(言語表現をカメラに喩えたところとか)。

みなさんは己から比喩を使ったことがあるだろうか。無い人結構多いと思う。比喩とは書いてあるもので、自ら書くことはない、そんな距離感の人は多いのではないか。ましてや週一で日記とかを書かない限り、そんなチャンス自体そもそもやってこない。

確かに日常生活で比喩を使う人は鼻につくかもしれないが、私としては「エモい」と言う人の方が数倍鼻につくので何の問題もない。私としてはね。

でもなー、こういういわゆる「レトリック」と呼ばれるものは文章だからいいみたいなところもなくはない。それは私も自覚している。

まあいい。とにかく比喩をしてみよう。で、ここでさらに提案で、「突飛な比喩」をしてみませんかという話ですよ。

言葉に色がついているように感じることを共感覚などと言うらしい。この突飛な比喩というのも、共感覚に近い。目の前の物事を、それとは全く結びついていない事象で表現する。

まあ理屈で説明しても仕方ないので例を見てもらおうと思う。

鈴木ジェロニモという芸人がいる。その人がYouTubeで、「〜を説明する」という動画をいくつも挙げていて、たまに観ているのだが、それが私が知る限りの比喩の最終到達点である。

例えば、「アクエリアスの味を説明する」という動画での比喩のひとつがこちら(画像は本人のTwitterから引用)。


すご。すごすぎ。

もちろん煙に味なんてないし、煙なんだから冷たくないだろ、などと色々冷めたことは言えるのだが、この表現はすげえ、と思ってしまった。

そして、基本「?」なんだけど、どこか、なんとなく、わかる気がする。その絶妙なライン。これだよ。これが心地いいんだよ。

もう一個くらい見てみるか。

これは「爪楊枝を説明する」のカット。




もう異次元すぎて笑っちゃうな。

そしてこれはどっちかというと「わからない」。そういうことだってある。なぜなら比喩というのは自分の感覚の尺度での近似なんだから、尺度の異なる人には伝わらないに決まっている。それを認めた上での世界だ。


ただ、いずれにせよこういうのって面白くないですか。見てる分にも、プレイヤー側も、「エモい」という杜撰な公式に当てはめるよりも、じっくり考えて表現したほうが、楽しいし、質がいいと思わないだろうか。その表現がなされるまでのプロセスって結構大事だと思う。

この面白さは違和感に由来しているように見える。その事象と表現の乖離、そしてその奥にあるつながりが生み出す違和感が面白い。

オモコロというwebメディア(この日記では何回も出しているのでそろそろ覚えてくれていることを期待してます)で、「ケーキに塩をかけるという選択」という記事がある。私が日本で1番面白いと思っている原宿というライターの記事だ。

ここで、原宿がケーキを食べた感想で「長い」と言っていたのに私は衝撃を受けた。

冗談抜きで、言語表現の幅が広がった瞬間だった気がする。「美味しい」でも、「しょっぱい」でもなく、「長い」。「長い」が面白いと思ったことなんてなかったのに。まだまだ世界は捨てたもんじゃないな、と思った。

形容詞ひとつとっても、言葉による表現にはまだまだ無限の可能性が秘められている。味を表す形容詞なら「美味しい」や「まずい」くらいかなー、などと日本で生まれ育ったにも関わらずいまだにそんなガチガチのフォーマットに従っている皆さん、1回その鎖を外してみませんか。その先に、きっと知らない世界があります。きづこう。もうそろそろ。




以上が私の主張である。後半はやや脱線してしまった気もするが、「表現の場を自ら捨てるべきではない」というということは一貫して伝えられたのではないだろうか。

読んでいただいている皆さんも、今頃は「エモい」などというヘドロのような語彙を使っていた己を恥じ、悔い、改めようという姿勢になっていることだと思う。最後にもう1回強く言っておくが、本当に「エモい」って言うのやめた方がいいよ。端無いよ。

あとアレだ。最近のJポップとかでさ、酒とかタバコとか失恋とかを片っ端から「エモい」感じに歌ってるやつあるじゃん。あれすっごい嫌いなんすよね〜。別に名指しはしないけど。

そうやって人間のダメなところを「エモい」に昇華させて何になるんだ。堕落な人間がエモの沼に足を取られていくだけではないか。あとせめてそういうことを歌うならもっと悪いことして振り切らないと。なんかうっすらずーっとヌルいよ。盗んだバイクで走り出すくらいしないと。


最後に、最初に挙げた卒業式翌朝の情景を、「説明」して終わろうと思う。


え〜、



そうだな〜、



湖?



冷たい湖?




「冷たい湖にガラスを浮かべている」






【今週の来てないお悩み相談】

クラスで一軍になる方法を教えて!

なんで一軍がいいの?一軍になったらお金とか貰えるの?ねえ、貰えないよね?じゃあなってどうするの?なんでなりたいの?その辺の具体的な理由が伴ってない。ハッキリ言ってそういう甘さだと思います。あなたの、そういう、人間性。一軍になる前に、そこに向き合うべきだと思います。じゃないとあなたはいつまで経っても三流です。






(おまけ)

若い人たちに必死についていこうとするおじさんみたいな検索履歴が残ってしまった

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