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noteと夢と自分を考える、いや、考え抜く!!!

5669文字(初の5000文字越え!)

やりたいことは、すぐ策を考えてそのままやれば良いのに、なんでこんなに策の考え方とか色んな途中式ばっかり考えているだろう?ってパソコンをパチパチしながら思ってブログ


こちらの本を(大いに影響されているところも含め)参考にさせていただきました。


まず、夢を外に出す前に

他人だろうが誰だろうが、無計画なんだろうが何だろうが、とにかく将来の夢は、口に出せばその夢への一歩を踏めていて、良い感じ♪と思っていましたが、なんか違いそうですね。逆に、足を止める行動なそうな。

夢には実物がなく、かといって「自制心」ほど日々、意識しないのが「」だと思っています。無責任でも夢は持てるからみたいなことでしょうか。


「note」の内で出来るやりたいことを書きますと前に述べさせて貰いましたが、なんか、あんま言うと、違う感じっすか?

「note」の内で出来るやりたいことを書きます!と述べたように、予告スタイルの方が良い、感じっすか?進捗度0%なら、言うのは控えろ!的な?

それか例えば、夢は夢でも、野球少年が「プロ野球選手になりたい!」って言ってるのは純粋な目標として聞けるけど、「プロ野球選手になりたい!それで、その入ったチームでリーグ優勝したい。それで、三冠王とか賞をいっぱい貰って、ずっと活躍していたい。それでもう、いつ辞めても良いぐらいお金持ちになりたい!でも、球団社長とか監督までは緊張するし、楽しくなさそうだからなりたくない。だから、貯金して35歳ぐらいには引退して、で!そしたら独立リーグとかでこう、ずっと野球してたい!」まで言うと、「具体的だけど、ナメんな。」ってなりませんか?


どうっすか?


あまりに言うと、違いませんか?目前の山は登頂する前提で、登頂した景色を妄想し、その奥の高い山、その奥の険しい山も登頂することを平地から意気込むのは生意気に見えませんか?

「プロ野球選手になりたい!」単体でも、数をあまりにも言うとまた違う。1回目は少年が夢を周りに公表する体験として、意思表示の成功として喜んで聞けますが、節度が有るんでしょ?

聞かされる側が単にウザいのと少年側も親や友人など、周りに言いすぎて個人の目標が二人三脚になり、三人四脚にと協力する人数が増えていく途中で「自分へのおめでとうが半減されるのではないか」と拗れて揉める、みたいな枷が邪魔くさくなるでしょ?

というか、予告スタイルが良いのか、とかどうでも良いからさっさと今からその「予告」に取りかかった方が良いですし、読者は「そういう言い訳回?結局やりたいことってなんなん?」と思ってきたでしょう。

本当に思われてるとしたら?と思うとこの記事が億劫になってくる。いや、それでも、

言ったからなぁ。

言ったんよなぁ。

 「海賊王に俺はなる!」ばりに「なりたい!」とは言わず、「なる!」って言った方が良いのか。
 夢ぐらい遠い目標設定だったとしても、あっ、違いました。

あれは漫画でした。

おはようございます。釜弾正と申します。よろしくお願いします。

こんがらがった

「将来の夢を持つことって良いことだよ。」


散々、聞いた(どんなところで誰から聞いたかは覚えていない)から、そういうもんだと思っていましたが、何処が良いことなのか。夢を持っても次に何をして良いのかが分からなくなる。

迷わずに生きるために、生きる目的(方角)を持った方が良いとしてみる。その上での目標は持てば尚さら良い。

その目標にたどり着く手段も考えた方が良い。この手順で後はその通りにやりゃあ良い。

嗜癖を排除して、時間を浪費しない方が良い。


じゃあ、生きる「目的」と「夢」は一緒くたでも良いですか?

それとも「目標」と「夢」を一緒くたと考えた方が良いですか?


どっちみち、わたくし釜弾正の生きる目的を提示してから目標を言った方が、因果関係がはっきりして、伝わりやすいってことなのでしょうか?

何をやりたいのかだけでなく、何を信念にしてそれがやりたいことなのかを、ということで、書くことが増えました。


全くもって時期ではありませんが、七夕、たなばた。夢を願うイベント。

ここからは思い出です。
夢を長細いイロガミに書き、笹の葉に張り付けるイベント。

半ば叶いそうもないと知っているから、さぁ!みんなで天に願おう!ということで、窓際社員化する予定の小さな欲望をリストラさせるイベント。今も運用はしているが、駅のホームで2mぐらいの笹と小さな星形の紙を見ると、「あったなぁ。」とまぁまぁ過去のものに感じるイベント。

祝日ではない。日常の隅。直近で僕が七夕に参加したのは、たしか5歳の頃、ドラッグストアで開かれていた。レジ付近の独立した陳列棚をどこかに避け、笹の葉をスタンドに刺し、その隣に木目が見えないように真っ白に塗られた長机を設置し、カラフルな花柄のアルミケースが置かれていた。

アルミケースの中には長細く、裁断された跡があるイロガミとネームペン一本が雑に入れられていた。そのドラッグストアには、イベント目的で訪れたのではなく、母親となにか、何処かへ出かけた後の帰る途中に何気なく寄った感じだった気がする。

僕はただ母親の買い物を付き添って歩いていた。何を買っていたのか。

それも覚えていない。もしかしたら母親は七夕目的でそこに寄ったかもしれない。

そのついでの買い物だったかもしれない。前後の記憶は皆無だ。

会計後、笹の茎に縫い付けられた短冊を見て母親は、イロガミに僕の願いを書くことを勧めた。夢なら何でも書いて良い。

しかし、書けない。齢は5。

ひらがなは書けるはずである。でも書けない。

笹の葉とイロガミに縫い付けられるにふさわしい夢が分からない。夢?夢?

これは人生の岐路なのか?夢?夢?母親は待てず、代筆した。

「最近映画見たなぁ。何見た?」

尋問に聞こえた。

「ポケモン」
「なんかおったなぁ。その映画にポケモン。なにおった?」
「ジバコイル」

"ジバコイルになれますように"

僕は、ジバコイルになれますように、と願う子どもになった。そして、叶えるとか叶えないとかが無いことも願えるイベントだと知った。

母親の代筆により、小さくて長細いイロガミの寸法にぴっちりの、達筆でヘンテコな願い事が笹の葉にぶら下がった。1日経てば、笹は撤去。跡形もない。

インスタのストーリー。なぜ、ジバコイルだったのだろう。


「じーばるるるるるるるるる。」


たしか映画では、TIMのゴルゴ松本さんがジバコイルの声優を務めていた。多分、それが心に残ったのでしょう。


「オクタンでは無いんだ。」って。それが私の七夕。



夢を願うイベントではないが、卒業文集で夢を願わせられた。小学生の頃は、病気で入院した経験があり、「健康」を願った。

高校生はコロナウイルス蔓延による活動自粛1年目であったため、卒業文集どころでは無くなった。そう、中学生卒業間近の話を今からします。

卒業年の秋頃に課題として出され、締め切りまで約半年。そのため、早く提出することに力を注いだ。

クラスでは普通を装うために、夢が無いことに頭を悩ませるふりをしていましたが、あったとしてもそのまま書く気はないし、考える気も無かった。ただ、早く終わらせたい。

でも思いっきり大胆なことを書いたら、浮く。七夕は願い事のみで名前はバレない。

しかし、文集は違う。私は、中学生辺りから、人には結果が一番大事論を述べるけど、思考は途中式をいかに書き連ねるか、遠回りながらも答えに近づいていくことに興奮するタチなので、ちぐはぐは感じていた。

そのちぐはぐは今まで、放置して忘れることになる。早く終わらせれば良いのだから、抽象的に「正社員になりたい」で、そのまま800字程度、ペンを進ませれば良かったのだが、語尾が気になったり、句読点の位置が気になったりして、時間がかかってた記憶がある。

結果的にはそれなりな文章で、それなりの時期に提出した。その文集が、どこに直しているのかは知りません。申し訳ございません。

現状は、「正社員になりたい」がジバコイル状態で、叶うことはないかもしれません。中学生と高校生の間に覚えていることに差があるのが虚しい、のは関係ない話でした。

申し訳ございません。


それでは。



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