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風呂

 週末の土曜日、新宿にあるソープランドで一発抜いた。二週間ぶりに射精したが、まだ余裕があった。相手をしてくれたホタルはコンドームの口をしっかりと結んで、中に詰まっている白濁の液にじっと目を凝らしていた。

「すごい溜まってたんだね」

「ああ。この日のために二週間ほどオナ禁生活を送ってたんだ」

 ぼくはベッドに横になったまま返事をした。まだやれる体力は残っている。でも激しい運動を終えたばかりで身体が休息を求めていた。

「どうして?」

「このメールを送ってきただろ」

 ぼくはベッドから身体を起こして、床に投げ捨ててあったブルージーンズを拾い上げた。ポケットからスマホを取り出し、彼女が送ってきたメールを見せた。そこには月末でソープランドを卒業すると記してある。

「このメールを見たときは驚いたよ」とぼくは言った。「本当に辞めちゃうの?」

「本当よ」彼女はタオルで隠してあるゴミ箱にコンドームを捨てた。「目標金額のお金も貯まったし、地元に帰るの」

「地元ってどこ?」

「熊本県の天草」

「天草か…」ぼくはブルージーンズのポケットから銀色のシガレットケースを取り出し、煙草を咥えた。火をつけ、一服目をゆっくり時間をかけて吸い込み、同じぐらい時間をかけて煙を吐き出した。

「天草っていうと、島原の乱ぐらいしかイメージはないな」

 ホタルはバスタオルを身体に巻くとぼくの隣に座った。

「どんな内容だったか知っている?」

「うーん、学校で習った内容だけど、江戸幕府のキリスト教弾圧に対して反乱を起こした内容だったはず」ぼくは煙草を吸い、排水管が剥き出しになった天井を眺めた。「それ以外だと天草四郎時貞が率いていたことは知っている。どんな人物だったのかはよく分からないけど、その生い立ちから神秘的な印象があってよく創作で取り扱われているよ。サムスピのキャラから、山田風太郎の魔界転生とか。知っているのはこれぐらいだよ」

「それだけ知ってれば十分よ。ほかのお客さんに天草について話してもあんまり興味なさそうだしね」

「そっか」ぼくは煙草を灰皿に押し付けた。「ところで、天草に戻ってどうするの?」

「まだなにも決めていないの」ホタルがぼくの膝を枕にして横になった。「高校も卒業せずにこっちに出てきたし、なにか特別な資格を持ってるわけでもないからどうしようか考えてる途中よ」

「家族とかは?」

 彼女は顔をこちらに向け、静かに首を振った。

「彼氏は?」

「いないわ。こういう仕事してると、やっぱり普通の人からはあまりいい目で見られないし、できたとしても夜の仕事に従事している人たちになっちゃうし」

「ぼくとかどうかな?」

 ホタルは失笑し、「なにを言ってるのよ」と聞き返してきた。

「きみの彼氏に立候補したいって言ってるんだよ」

 ホタルは腹を抱えて笑い出し、身体を起こした。そしてぼくをじっと見つめた。

「冗談でしょ?」

「マジだよ。冗談抜きで、きみの彼氏になりたいと思っている」

「私のことが好きってこと?」と頬を緩めたホタルが言った。「私のどこがいいの?」

「エロいところが最高にいい。それと」ぼくは言葉を区切り、一拍置いてから続きを口にした。「きみの前だと緊張せずに済むんだ。女性と話すとすぐに緊張してしまうんだけど、きみの前では違う。すごく自然体でいられるんだ」


 ぼくはホタルに自分が付き合ってきた女性の数を明かした。指を三本あげると、彼女は目を丸くした。その表情が意味することは分からなかったが、素人童貞であることも明かすと、今度はただ笑うだけだった。

「正直、なんでこんなに女性にモテないのかさっぱり分からないんだ。失礼のないように接してもあまり好意的な態度を示してくれない。ある程度仲を深めてから好意を伝えても結果は散々だった」

「でも三人だけはあなたのことを受け入れてくれた」

「ああ。受け入れてくれた。でも」ぼくはため息をつき、その三人との交際期間は全てを合わせても一年にも満たないことを伝えた。最初の彼女はイメージと違ったことを告げ、次に付き合った人は暇つぶしとしての相手だったと明かし、最後の相手からはなにを考えているのか分からないと言い、彼女たちはぼくから離れていった。

 自分の恋愛遍歴を振り返ってみると泣けてきた。瞳が潤み、泣かないように顔を上に向けてみたが涙が頬を伝って落ちてくる。ホタルは喋ることもなく、ぼくの様子を伺っていた。

 ぼくはベッドから立ち上がり、洗い場にある浴槽に身体を沈ませた。随分時間が経っていたのでお湯がぬるくなっている。身体を深く沈めるほど浴槽からお湯が流れ出していった。ぬるくなったお湯にどれだけ身を浸しておいても身体の芯から暖まることはなかった。

 部屋の隅に設置してあるスピーカーからジャズっぽい曲が流れていた。微かに聞こえる程度の音量で、ぼくは曲名の分からない音楽に耳を傾けた。トランペットとドラム、それからサックスにピアノの演奏は良かった。が、聴く場所としては不似合いだった。ときどきほかの部屋から女の喘ぎ声が聞こえてくる。男の悲鳴も混じっていることもあった。どんなプレイなのかは容易に想像がついた。

「ねえ、まだ時間があるけどどうする?」

「止めておくよ。今の気持ちでやっても辛くなるだけだから」

 ぼくは浴槽から出て、床に放り投げてあったバスタオルで身体を拭いた。ホタルは新品のバスタオルを勧めてくれたが、ぼくは首を振った。それから裏返しになっていたボクサーパンツを手に取った。

「ごめん。なんか変なこと言っちゃって」

「いや全然」ホタルは手を振った。「お互い裸で付き合っているからこそなんでも言い合えることができるもんよ」

 ホタルがブルージーンズを手渡してくれた。

「そうかもしれないね」ぼくはブルージーンズを履き、シャツに腕を通した。「じゃあ服を着てしまえば言いたいことも言えなくなるのかな?」

 ホタルは苦笑するだけだった。彼女は何も答えてくれない。ベッドから立ち上がり、バスタオルをとって裸になった。そのまま洗い場へ進んでゆき、シャワーの蛇口を捻った。

 ぼくは煙草を吸いながら、シャワーを浴びる彼女を眺めた。スピーカーからはあまり馴染みのないポップスが流れ、そしてほかの部屋から女の喘ぎ声が聞こえてくる。

 ホタルはシャワーを浴び終え、バスタオルで身体を拭った。それからよれよれになったパンツを履き、ブラジャーをつけた。そこには優雅さも可憐さもなかった。ぼくが衣服を着たのと同じように必要だから着ている。ただそれだけだ。

「じゃあ、フロントに連絡するけど忘れ物とかない?」

「ないよ」ぼくはブルージーンズのポケットを叩いた。「大丈夫。財布も煙草もスマホもしっかりと持っている」

 彼女はにっこりと笑ってくれた。壁に設置してある受話器を手に取る。ホタルはボソボソと会話をしてからまた受話器を戻した。

「じゃあ、行こっか」

 ホタルが手を差し出してくれる。ぼくは彼女の柔らかな手を握った。

 フロントへ向かうまでぼくは彼女の手を握り続けた。彼女は隣で天草について話してくれるが、右から左へと向けていく。相槌を打ったり、作り笑いを浮かべるのが精一杯だった。

「ねえ、さっき提案したことなんだけど…あれはどうかな」

 階段を登り終えてからホタルに訊いてみた。彼女は失笑した。それからぼくの手を離した。別れの抱擁をして、彼女が白いカーテンをめくった。

「ありがとうございました!」

 通路の隅に複数の黒服が立ち並び出迎えてくれた。

「出入り口はこちらになります!」

 黒服が出口へと先導してくれる。ぼくは後ろを振り返ってみたが、ホタルの姿はなかった。声も聞こえず、たださっき部屋で流れていたジャズ風の曲が聞こえてくるだけだった。


 その日以後ぼくはソープランドへ通うことを止めた。彼女以外にも素敵な女性たちは何人も在籍していた。ホームページで彼女たちのプロフィールを閲覧すれば生年月日から血液型、趣味などを知ることができる。好きな体位やタイプの男性についても記してある。どこが敏感なのかも彼女たちは堂々と明かしている。中には「探してみてね」と挑発的な書き方をしている子もいた。そういった類の文章の最後には決まってハートマークがついている。

 ソープランドに行かなくなったからといってほかの風俗にハマることもなかった。アパートの郵便受けには大量のチラシが突っ込まれていて、そのほとんどがデリヘルだった。安っぽい紙質で、『地域最大の優良店』、『可愛い子が多数在籍中』と客の好奇心を煽るフレーズが載っていても目を奪われることもない。それはゴミ以外のなんでもなく、部屋に戻ってすぐにゴミ箱に捨てた。

 風俗から足を洗ったことで貯金ができるようになった。以前は赤字続きだったぼくの財政状態は黒字へと転換し、預金口座に金がある状態になった。財政的な余裕ができたからといって流行のファッションを追いかけたり、旅行に出かけることはなかった。当然キャバクラにも出向くことはない。一度同僚に飲みに誘われたが、あまり気が乗らず断った。

 その同僚は何か借金でもあるのかと訊いてきた。

「借金はないよ。ただあまりお金を使いたくないんだ」

 ぼくの返事を聞き、彼は驚き、ため息をついた。

「なあ、俺たちはまだ若いんだ。打つ、買う、飲む。この三つを今のうちに楽しんでおかないと後で後悔するぞ」

「そうだね。でも、何をしても楽しいと思わないんだ」

「どうして?」

「分からない」とぼくは言った。「日々やることといえば、仕事して飯を食って、糞をして寝る。その合間に煙草を吸う。それだけだよ」

 同僚は首を振り、「理解できないな」と言い、「そんな毎日を送っていてもなにも楽しいことは見つからないぞ」と付け加えた。

 それについてはぼくも同意見だった。


 ある日、銀行から電話がかかってきた。それは金融商品の紹介で、銀行員がいい投資先があることを熱心に話してくれた。

「今多くの投資家の皆さんが注目しているのは米国株です。グローバル化が進んだといっても世界経済の中心は米国です。考えてみてくださいよ。スターバックスはどこの国の企業ですか? マクドナルドは? 今お客さまがご使用になっているIphoneは日本の企業が製造しましたか?」

 銀行員はその後も米国株の魅力を熱く語り続けた。ぼくはその質問に一つずつ答えた。スターバックスを普段利用することはなく、インスタントコーヒーを愛飲している。マクドナルドは不味くて論外で、使用しているスマホは台湾製だと答えた。

「これは一本取られてしまった」スマホから銀行員の笑い声が聞こえてきた。「でもね、お客さん、本当に米国株が熱いんですよ。今を逃したら本当に損をしますよ。今が買いですよ。本当にマジで」

「そうなんですか」

「そうなんですよ。今多くの若い方々が投資に興味を持ち始めています。しかし投資をしたくてもまわせる余剰資金がないのが実情です。けどお客さまは違う。預金口座には十分な蓄えがあります。このまま寝かせておくのは損ですよ。本当に、嘘抜きで。今我々が普段使用している日本円の価値はどんどん下がっていっています。金の値を百とすると、円の価値は」

「買いますよ。どういった手続きをとればいいですか?」

「え、よろしいんですか」

「ええ。構いません。どうせ預金金利なんてた微々たるものですから」

「ありがとうございます。関係書類については早急にお送りいたしますので」

「よろしくお願いします」

 ぼくは電話を切った。スマホを床に放り投げ、換気扇の下で煙草を吸った。


 銀行員の言ったとおりに米国株に投資した。彼が勧めてくれたハイテク株を中心に買い漁った。毎朝起きてはスマホで株価を確認した。昨日より株価が上がっていることが当然でその翌日にはまた値が上がっていた。

「売るタイミングを間違えないでくださいね。株の売買の基本は『安いときに買い、高くなったら売る』その繰り返しが大事ですから」

 銀行員が教えてくれたように株が高くなったら売り、安くなったらまた大量に買った。作業はスマホでワンクリックすればいい。今の仕事と同じだった。コンベヤーに乗って流れてくる自動車部品の外観をチェックし、不具合があればボタンを押して、職場の班長を呼ぶ。あとはその指示に従うだけでいい。取り除くか、そのまま流すか。判断するのはぼくではなく、班長だ。工員であるぼくはただ言われたことをやればよかった。

 株の売買を続けていくと、預金口座に今まで目にしたことない額のお金がどんどん振り込まれてくる。ゼロの数は子どもがいたずらでつけた丸みたいに増えていく。素直に驚きつつも、ぼくは誰にもこのことを話さなかった。普段通り工場へ通い、コンベヤーに乗って流れてくる自動車部品の外観をチェックする作業を続けた。


 投資を勧めてくれた銀行員と食事をする機会があった。彼が指定した場所は浅草ロック座の近くにある古びた洋食屋で、店内には古い歌謡曲が流れていた。ぼくと銀行員以外の客はほぼ老人たちで、彼らは競馬新聞を広げていたり、ロック座のチラシを舐めるように見ていた。

「それにしてもこうやってお会いするのは初めてでしたよね」銀行員は背広の内ポケットから噛みタバコみたいな色をした牛革の名刺入れを取り出した。「金谷優と申します。いつも贔屓にしていただきありがとうございます」

 ぼくは名刺を受け取った。パリッとした紙質で、ソープランドで女の子からもらう名刺とは材質から違っていた。彼女たちは名刺にその日のプレイの感想を書いたり、また会いたいとを記入したりするが、金谷の名刺には社名と所属部署、そして連絡先しか載っていない。

「どうされましたか?」

「ぼくは名刺を持っていないんです。そういった仕事には就いてなくて…」

「名刺がないことなんて気にしないでください」金谷が手を払った。「あくまでビジネスマナーとして渡しているだけなので」

「すいません」ぼくは頭を下げ、名刺を財布の中にしまった。

「たしかお仕事は自動車工場勤務でしたよね?」

「はい」ぼくは肯いた。「金谷さんみたいに立派な職ではありません」

「とんでもない」金谷が手を振った。「職業に貴賎なんてありませんよ」と彼は言った。「自動車をはじめ製造業で働かれている方々がいるからこそ我々の生活は成り立っているんです。身近なものだとスマートフォンやパソコン、それに自動車。こういったものがなければ我々の生活は成り立ちません。それに比べると私の仕事などただ喋るだけです。お客さまに良い商品を紹介し、買ってもらう。ただそれだけです」

「でも、喋ることも大変じゃありませんか?」

 金谷がグラスの水を半分ほど飲んだ。

「大変ですけど、私はこの仕事が好きなんです。お客さまが少しでも利益を出していただけれるなら、どんな方にでも電話で商品を紹介しますし、どんな場所に住われていても足を運んで説明させていただきます。遠ければ遠いほど私にとってはやりがいを感じます」

「どうしてですか?」

 金谷は内ポケットから赤のマルボロを取り出し、ライターで火をつけた。ゆっくりと吸い込み、気持ち良さげに煙を吐き出す。

「遠方にいけばその土地の美味いものを食べることができるんです。私にとって食べることは唯一の趣味といえます。でも、最近医者に控えろと言われているんですよ。このままだと糖尿病になるぞってね」

 金谷は牛蛙みたいな笑い声をあげ、小高い丘のように盛り上がった腹を叩いた。

「このお店も美味しい料理とかあるんですか?」

「ええ。オムライスが絶品なんです。浅草に来ると必ず食べたくなるんですよ。近くのストリップ小屋の女の子たちもよく来るようで、タイミングが良ければお目にかかることができますよ」

 金谷がまた大声で笑った。店内に響き渡るでかい声で、近くの席で競馬新聞を広げていた老人がチラリとこっちを見た。

「仕事にやりがいを感じられているんですね」とぼくは言った。「正直、羨ましいです」

 金谷がグラスを空にした。

「失礼ですけど、今のお仕事はあまりお好きではないのでしょうか?」

「好きか嫌いかはわかりません。ただ、働かざるえないから働いているだけです」

「そうですか。では、お辞めになられて個人投資家としてやってみてはどうでしょうか? こんなことを口にするのは職務違反ですが、今の蓄えを本格的に運用されてみてはどうでしょうか」

 ぼくは上手く返事ができなかった。金谷が真剣な眼差しを送ってくる。その視線から逃れるようにぼくは顔を下に向けた。

「ご注文の生ビールです」

 若いウェイトレスがやってきて、二つのジョッキをテーブルに置いてくれた。ジョッキには霜がはっていて、見るからに冷たそうだった。

「ほかにご注文はありませんでしたか?」

 ウェイトレスがペンと注文表を持って立っている。

「さきに注文しませんか?」

「そうですね」と金谷が言った。

 金谷は灰皿にマルボロを押し付け、メニュー表を手に取った。

「ぼくの注文は決まっています。この店自慢のオムライスを一つお願いします」

「分かっていますね」と金谷がニヤリと笑いかけた。「私にもオムライスを一つ。いつもと同じく大盛りでね」

 金谷がウェイトレスにウィンクをしたが、彼女はそれに気付いてはいなかった。黙々と注文表にペンを走らせていた。


 食事を終えたあと、金谷が投資のセミナーがあることを教えてくれた。そこには若い起業家たちが参加し、さまざまな知見を拝めることを話してくれた。

「そこに参加してみてはいかがでしょうか。参加者の皆さんはとても頭がキレる。なにか質問を投げ掛けると、的を得た答えを返してくれます。以前私も参加したことがありましたが、ただ眺めるだけしかできませんでしたよ」

「僕みたいな一介の工員が参加していいんでしょうか?」

「工員だろうが、警備員だろうが職業なんて関係ありません。真剣に投資について学びたい人たちが参加して、互いに切磋琢磨することが目的なんですから」

 金谷は食後の一服を吸い、煙を天井の設置してあるシーリングファンに向けて吹き出した。

「まあ、一回だけでも参加してみてはどうですか? 決して損はしませんよ」

 金谷はオムライスと生ビールが詰まった腹を叩き、豪快に笑った。


 金谷が紹介してくれたセミナーに参加することにした。場所は渋谷センター街の近くにある雑居ビルの一室で、すでに参加者で席が埋まっている。受付で金谷の名刺を渡すと、応対してくれたスーツ姿の若い女性が微笑み、深々とお辞儀をした。

「本日はお越しいただきありがとうございます。こちらは席の番号と本日の資料になります」

 ぼくは番号札と資料を手に持って室内へ足を踏み入れた。セミナーはすでに始まっていて、ホワイトボードを前にカジュアルな服装の若い講師が投資についてなにかを話していた。すると参加者の一人が手を挙げ、質問を投げかけた。

「ずばり、今後伸びそうな銘柄はなんだか教えてくれませんか?」

 室内に笑い声が響いた。ぼくは席に座り、受け取った資料に目を通していた。

「そうですね…それが分かれば我々はすぐに大金を得られますよ」と講師役の若い男性が言った。「逆に私が教えていただきたいぐらいです。これからどんな産業が伸びるかについて。あなたはどう思いますか?」

 講師役の男性が人差し指をさしてきた。後ろを振り向いたが、誰もいなかった。

「あなたのことよ」隣に座る女性が腕を叩いてきた。

「すいません」ぼくは勢いよく立ち上がった。その反動で椅子が倒れ、資料が床に散乱してしまった。室内にまた笑い声が響く。

「座ったままでいいですよ」

 ぼくは椅子を起こして座った。隣の女性が資料を拾って渡してくれた。

「伸びそうな銘柄は製薬関連かな…と思います」

「どうしてですか?」

「百年前にスペイン風邪が世界的に流行っていたので、そろそろまたなにか新しい病気が流行るんじゃないかと。鮭が産卵するために川に戻ってくるみたいな感じで…」

 室内にまた笑い声が響き渡った。隣に座っている女性も両手で口を隠して笑っていた。

「いや、あながち間違ってはいないですよ」と講師役の若い男性が言った。「みなさんは地球温暖化の影響で北極の氷が溶け出しているのをご存知だと思います。その氷の中には今まで知られていなかった未知のウィルスが潜んでいるかもしれない。我々は大規模な開発を続けてきました。それは今も現在進行形です。そのうち大きなしっぺ返しを受けたとしてもおかしいことではありません」

 若い講師役が説明していくと、室内に感嘆の声が響いた。


 セミナー終了後、会場を別にして懇親会が催された。白い布が敷かれたテーブルにはサンドイッチやケーキにクッキー、ドリンクはコーヒーから緑茶まで用意されている。

「短い時間ですけど、皆さんの親交を深める場になれば幸いです」

 講師役の若い男性が挨拶を終えると、参加者たちは各々紙皿を手にして場内を歩き回った。見ているかぎり、参加者のほとんどが知り合いらしく、旧友にでも再会したように和気藹々としていた。

 ぼくは緑茶が注がれた紙コップを手に場内を歩きまわり、壁際に置いてある椅子を見つけるとそこに腰を下ろした。そして緑茶を啜りながらスマホをいじった。

「お隣いいですか?」

 顔を上げるとさっき隣に座っていた女性がいた。明るい緑の生地に花柄の模様の入ったワンピースを着ていて、両耳に貝殻のピアスをつけている。

「ええ、構いませんよ」

 彼女はワンピースが皺にならないように丁寧に椅子に座った。

「このセミナーに参加するのは何回目?」

「今回が初めてです」とぼくは言った。「講師の方がいろいろと話をしていたけど全くついていくことができませんでした」

「投資の経験はどのくらいですか?」

 ぼくは年数分の指をあげた。

「私も同じくらいです」と言い、彼女も同じ数の指をあげた。

「結構参加されているんですか?」

「ええ」と彼女は答えた。「投資についてもっと学びたいし、それに他業種の方々とお会いする機会ってなかなかないので」

「失礼ですけど、どういった方面のお仕事をされているんですか?」

「申しおくれました。桐原美咲と申します」

 彼女が名刺を渡してくれた。金谷の名刺とは違う紙質をしていた。硬いが、研いだ刃物のようにするりとした質感をしている。桐原の名刺には企業名と彼女の名前、そして役職として代表と記してあった。

「代表って…社長さんなんですか?」

 名刺を持ったままぼくは桐原を見た。

「はい。小さな輸入雑貨店を都内で三軒ほど経営しています」

 桐原が微笑みを浮かべて答えてくれた。久しぶりに女性のそういった表情を目にしたので、視線が床に向いてしまう。

「どうされましたか?」

「いえ、お若いのに会社を経営されているのが凄いと思って」ぼくは緑茶の紙コップを啜った。「やっぱりここに参加されている方々も桐原さんと同じように会社を経営されているんですよね」

「ええ。そのはずですよ。講師役の南さんはIT関連の会社をいくつか経営されているし、あそこで歓談されている横山さんは都内にいくつもの不動産を所有されています」

 桐原が向けた視線の先には達磨みたいな体型の中年男性が品の良さそうな女性たちと一緒にいた。達磨がなにか話すと女性たちが笑った。一人は手で口を覆い、一人は着物の袖で口を隠している。

「なにか面白そうな話をしてるっぽいわね。ねえ、私たちも混ぜてもらいましょうよ」

 桐原が椅子から立ち上がった。

 ぼくは椅子に座り続けた。それを変に思ったのか、彼女が訊ねてきた。「どうしたんですか」と。

「ぼくは遠慮しておきます。どう見てもこの場に不相応だし、一緒に行けば桐原さんが恥をかきますよ」

「どうしてそんなことが言えるの?」

「ぼくは経営者でも起業家でもない。一介の工員です」

「それと私が恥をかくこととどう関係があるの?」

 彼女はもう一度椅子に座り、質問の答えをじっと待っている。

 ぼくは緑茶の紙コップを両手で握り、残り少なくなった中身に目を落とした。

「うまく説明できません。ただなんとなくそう思うだけです。一緒にあの人たちの輪の中に加わってもぼくは話題についていけない。だから、そこから弾き出されるだけです。異物を排除するみたいに」

「だったら私も一緒に排除されたらいいわ。話が合わないのならそれだけよ」

 彼女はぼくの言い分を一蹴した。


 桐原とはセミナー終了後も連絡を取り合った。他愛のない会話でも彼女は真剣に答え、ときにはユーモアを交えてくる。随分と女性と交流する機会がなかったのでどのよう反応すればいいのかと迷い、返事に遅れることがしばしばあった。

「こんな会話に真剣にならないで。大事なのは互いに連絡を取り合うことなんだから」

 レスポンスが遅くてよく叱られることがあった。でも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

 彼女と食事をする機会が何度かあり、そのたびに雰囲気のいいレストランを探して予約した。ミシュランのガイドブックに載ってある寿司屋や、食べログで高評価を得ているレストランなどだ。事前にそのことを伝えると、彼女はとてもうんざりした表情をして首を振った。

「ねえ、どうしていつも高級店や有名店を選ぼうとするの?」

 ぼくはその理由を答えた。「雑誌に載っていたんだよ。レストラン選びで男性のセンスが問われるって」

「ananとか?」

「いや、ポパイだよ」

「あんなのなんの役に立たないわよ」と彼女は吐き捨てるように言った。「私が行きたいのは普段のきみがよく通っているお店なの。その意味が分かる?」

「全く分からない」とぼくは言った。「でも、普段通っている店でいいのならすぐ近くにあるよ」

「じゃあそこに行きましょう」

 ぼくは予約していたレストランにキャンセルの電話を入れ、桐原をかつやへと連れていった。カウンターに立つ店員がカタコトの日本語で応対した。

「空いてるカウンターにお願いしやす」

 ぼくたちはカウンターに肩を並べて座った。店員が熱いお茶をコップに注いで置いてくれた。

「ここの店員さんって外国人?」

「そうだよ」とぼくは言った。「どこも人手不足だし、しょうがないんじゃないかな」

「そうね。私のお店も人手が足りてないわ」と彼女は言った。「でも堅苦しい接客がないのはいいことね」

 桐原は両手を上に挙げてのびをした。

「ご注文はお決まりになりやしたか?」

「いえ、まだよ」彼女は驚いて首を振った。

「決まりやしたらお呼びください」

 店員は一礼し、厨房にいる店員と話を始めた。


 桐原と六回目の食事を終えたあと彼女が自宅に招いてくれた。そこは品川駅の近くにある古いマンションで、外観は乳白色をしていた。廊下の照明が切れている箇所もあったが、玄関はオートロックで管理人も駐在している。女性が一人で暮らすには充分な安全性があった。

 桐原が先に部屋に入り、ぼくはその後に続いた。入った瞬間、甘い匂いがした。ぼくが住んでいるアパートとは大違いだった。

「女性の部屋に入るのは初めてだよ」

「今まではホテルとかを利用していたの?」彼女はバッグを床に放り投げ、ベッドに腰掛けた。「それともきみの部屋とか?」

 ぼくは首を振った。どちらでもないことを伝えた。

「じゃあ、どうしてたの? もしかして多目的トイレとかじゃないでしょうね」

 桐原は笑い、ペットボトルの水に口をつける。ぼくは立ったまま部屋の中にある家具やそこに置かれているディズニーのぬいぐるみに目をやった。

「あんまりじろじろ見ないでよ。なんだか恥ずかしいんだけど」

「桐原さんのセンスがよく表れているなと思って感心してるんだよ」

 彼女はペットボトルを飲み終え、空のボトルを放り投げてきた。ぼくはそれをキャッチして、近くのテーブルに置いた。

「なにするんだよ」

「ねえ、いいかげん名前で呼んでくれない? 私たち知り合ってどれくらいだと思ってるの?」

「半年以上は経っているかな」

「それぐらいあれば男と女が深い関係になると思うんだけど」

 彼女の言わんとすることは分かっていた。ただ、ぼくには自信がなかった。一介の工員、そして素人童貞。彼女のような素敵な女性がぼくみたいな男と釣り合うのだろうか。

「とにかく早くこっちに来て」

 桐原が手を差し伸べてきた。ぼくはその手を握り、彼女の背中に手を回した。


 女性の身体に触れるのはいつ以来だろう。最後に抱いた女性はホタルで、それ以外の女性と関係を持つことはなかった。久しぶりにセックスをすることにも不安があったが、身体は正直だった。彼女が求める部位を丁寧に愛撫し、勃起したペニスを挿入する。ピストン運動は正常位から始まり、次に彼女の体を持ち上げて騎乗位に移した。ぼくの体の上で腰を振る美咲の肌は白くて無駄な贅肉などなかった。肩までのびたライトブラウンの髪が宙に舞い、彼女の口から喘ぎ声が漏れでてくる。ぼくは上半身だけを曲げ、彼女の太ももから腕を通して小ぶりな尻に手をやり、そのまま持ち上げた。

 美咲は驚きつつもしっかりとぼくの首にか細い腕をまわした。ぼくは彼女を抱えたまま玄関まで歩き、姿見の前で止まった。

「横を向いてみて」

 美咲は言われたとおりにした。でもすぐに顔を戻した。

「変なことしないで」

「こういうのは嫌い?」

 彼女は答えない。もう一度尋ねてみたが、唇を重ねてきた。

 ぼくは彼女を抱えたままベッドに戻り、体位を正常位に戻し、そして中で果てた。


 ぼくは何度も彼女を抱いた。一般的ではない体位で交わったり、排泄以外の用途がない穴に指を突っ込んだり、舌を入れて舐めた。その度に美咲は驚いた。時折叩いてくることもあったが、ぼくは舌を止めることをしなかった。

 ぼくは彼女の中で四回射精し、五度目の挿入の途中で音を上げた。彼女の中からペニスを引き出し、ベッドに横になった。

「もう無理だ。ごめん」

「四回もやれば十分でしょ」と隣で横になる美咲が言った。「ねえ、一体どこでこんなやり方を覚えたの?」

「風俗だよ」

「ヘルスとか?」

「いや違うよ」ぼくは壁と向き合うように姿勢を変えた。「ソープランド。かなりハマってたんだよ」

「今は?」

「全然通っていない」

「どうして?」

「一人のソープ嬢に惚れてたんだけど、振られたんだよ。それになんだかやるだけの関係が虚しくって…」

「そう。で、彼女とかは?」

「全くだよ。人生で三人と付き合ってきたけど、どの子とも体の関係まで発展しなかった。商売女とは何度もやってきたけど、そうじゃない女とはやったことがなかった」

「私が初めてなんだ」

 ぼくは返事をしなかった。目を閉じて成り行きを見守った。美咲はなにも喋らず、指で背中をなぞってくるだけだ。なにか文字を書いている感触があった。それを考えようと目を閉じたが、気がつくと寝てしまっていた。夢を見ることもない深い眠りだった。


 美咲との交際は順調に続いた。見栄を張ることも緊張することもなく彼女と関係性を深めることができた。今まで付き合ってきた女性たちよりも長く付き合うことができたときは自分でも信じられず、美咲にそのことを話すと、彼女は失笑し、こういった。「私がきみの彼女としてのホルダーになるよ」と。

 彼女の台詞はとてもポジティブな響きがあった。でもぼくはそれを素直に受け止めることができなかった。頭のどこかで美咲が別れを告げて離れてゆくだろう、と勝手に想像していた。

 ぼんやりとした不安を抱きながらも美咲との交際を続けた。一年目を迎えると彼女と同棲することになった。小岩にあるアパートを引き払い、品川の彼女のマンションに転がり込んだ。最初は緊張していたが、時間が経つにつれて自然体で過ごすことができた。そして二年目を迎えた年の冬、彼女が妊娠したことを告げた。

「できちゃったんだけどどうする?」

「そうだな…」

 ぼくたちは狭い浴槽の中に身を沈めた。体育座りをしないと肩まで浸かることができない。浴槽からあふれでたお湯が排水口へと流れていく。

「正直、私の人生プランに結婚なんてないんだよね」

「ぼくも同じだよ。結婚なんて選択肢ありえない」

「きみの人生プランってどんな内容なの?」

「小岩のアパートで孤独死する予定だった」

「あのアパートを引き払って今はここに一緒に住んでるけど、ここでも孤独死の予定?」

「いや違う」ぼくは美咲を引き寄せた。ダムが決壊したみたいに浴槽からお湯が溢れ出してゆく。「今は少しでも長く美咲と一緒に暮らしたいと思っている」

 美咲が腕を背中に回してくる。

「じゃあ、お腹の子どもはどうするの?」

「できることなら産んでほしい」

「本当に?」

「ああ」とぼくは答えた。

「じゃあ、産んでやるよ」と美咲は言い、唇を重ねてきた。


 美咲は身体を洗うため一度浴槽から出た。彼女はシャワーを浴び、ボディーソープを泡立てている。ぼくは浴槽にもたれかかり、彼女の仕草を眺めた。

「ねえ、きみのスマホが鳴ってるんじゃない?」

「本当? じゃあちょっと出てくるよ」

 ぼくは風呂場を出た。脱衣所に置いてあるスマホを手に取った。画面には見覚えのない十一桁の数字が並んである。通話ボタンを押すと、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「久しぶり! 元気にしてる?」

 電話をかけてきたのはホタルだった。

「久しぶりだね。五、六年ぶりかな」ぼくは開いていた風呂場のドアを閉じた。「いきなり電話がかかってきて驚いたよ」

「そうだろうね」

「で、なんの用?」

「私ね、またあの店に出戻りになったの。それでお得意様に復帰したことの連絡をしてるってわけ」

「そう」

「ねえ、今週末お店にこれない? 久しぶりに会うんだからサービスするよ」

「いや、遠慮しておくよ」とぼくは言った。「いろいろと忙しいんでね」

「そっか」とホタルが言った。「じゃあ、いつなら来れる?」

「分からない。もし行くことがあれば事前に連絡するよ」

「そう。じゃあよろしくね」

 ホタルが電話を切った。ぼくは彼女の番号を消した。スマホの設定を開き、未登録の番号を着信拒否する設定にした。

 スマホの電源を切って脱衣所に放り投げ、ぼくは風呂場に戻った。美咲は身体を洗い終えたところだった。

「誰からの電話?」

「間違い電話だよ」

 美咲が何かを言いたそうな顔をしている。ぼくは浴槽に身を沈め、彼女の手を取った。

「なに?」

「風呂の中でぎゅっと抱きたくなった」

 美咲は椅子にでも座るみたいにぼくの上に乗ってきた。ぼくは背後から彼女を抱きしめ、お腹の辺りに手を置いた。


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