ホラー短編 胡蝶の夢とドッペルゲンガー
ある日、わたしは夢で蝶になっていた。
夢の中でわたしは蝶になりきっていた。蝶であることが楽しく、心のままにひらひらと舞っていた。
目が覚めると、わたしは蝶でなくわたしであった。
はたして、わたしが蝶の夢を見ているのか、蝶がわたしの夢をみているのか。
いったい、どちらが本当のわたしなのか。──荘子「胡蝶の夢」
十二番診察室。
わたしはベテランの看護師長と一緒に外来患者──心療内科にかかる患者を待っていた。
次の患者が、今日の最後の患者だ。
その患者の診察が終わったら、今日は残業しないで娘の誕生日プレゼントを買いに行く予定だ。今年で三歳になる娘へのプレゼントは、ショッピングセンターで予約しているピアノのおもちゃだ。ポロンポロンと音の鳴るピアノのおもちゃだが、最近のものはネットに接続することができて、基礎的な練習曲も最新の流行曲も、鍵盤の明滅でお手本が出る仕様になっている。十三インチほどのモニターも付いていて、幼児向けのアニメーション動画も映すことができるすぐれものだ。人気商品なので品薄な商品だったが、わたしは知り合いのコネで、なんとか在庫を一台押さえることができた。仕事が終わった後すぐにこのプレゼントを買いに行き、家に帰って妻と娘と幸せな一家団欒の時間を過ごす予定だ。娘の喜ぶ顔を見るのが楽しみだ。
さて、今日の最後の診察を片付けよう──。
わたしはこれから診察する患者のカルテに目を通した。患者は五十代後半の男性。この男は二十数年前に殺人を犯していた。今はもう出所しているが、刑務所に七年間服役していた。殺人犯と聞くと世間では冷たい反応をしたり眉をひそめる人も多いが、服役を終えた多くの犯罪者は十分に反省し、更生してまっとうに生きようとする者の方が圧倒的に多い。前向きな人生を願うものが多いが、服役中に罪や罰や善悪について考えすぎてしまい、自身の罪の意識からPTSDを発症してしまう者が少なからずいる。この男はすっかり更生しているが、罪の意識に悩ませられているケースだった。
「次の方、どうぞ」師長が患者を呼ぶ。がらがらと診察室のドアがスライドし、顔色の悪い中年男が中に入ってきた。
「失礼します。先生、よろしくお願いします」
男は中年で、上下グレーの作業服を着ていた。
顔色もグレーがかっていて、神経衰弱が窺えた。表情はのっぺりと無表情で、生気や覇気といったものが見えない。とりあえず印象からの判断だが、男は健康的には見えないが、特別な重篤症状を抱えているようにも見えなかった。
「どうぞ、お掛けください」看護師長が着座をうながし、男は診察用の丸椅子に腰をおろした。
「お久しぶりですね」わたしはカルテに目をやった。
「たしか、前回までの受診で不眠はだいぶ改善されたようですが……また眠れなくなってしまいましたか?」
「ええ、どうにも、最近また眠れなくなってしまいまして、今日は先生に話を聞いてもらいたくて来ました。先生、またわたしの話を聞いてもらえますか?」
「ええ、もちろんです」
私は答えた。しかし、今日は娘の誕生日だ。あまり長引くと困るとわたしは思った。普通、精神科や心療内科にかかる患者は一回の受診に時間制限を設定している。心の病を患う人間は、えてして堂々巡りの思考に陥っていて、同じ話を延々と繰り返す場合が多い。繰り返しの中で繰り返す不毛に気づき、堂々巡りを脱却できる場合もあるが、一人の患者に一日の時間を丸々と費やすわけにもいかないので、一人あたり三十分までなど、制限をかけているのだ。
「眠れなくなってしまった原因はなんでしょう? なにかトラブルでも起きました?」わたしは言った。
「はい、そうなんです。問題が起きて眠れなくなってしまったんですが、今回は大きな事件がありまして……」男は少しいい淀んだが、続けて言った。「ええと。信じがたい話だと思うのですが、不思議な体験をしてしまいまして。それで、おそらく信じてもらえないと思うのですが……実を言うと、わたしもまだ、自分自身のことなのに信じられないところもあるのですが……。
でも、わたしの身に起こったこと、わたしが覚えていることを、出来るだけ正確に、体験したままに、今から先生にお話したいと思うのですが……先生、聞いていただけますか?」
くどい。
わたしは聞きながら思った。
「ええ。もちろんです。何があったのですか?」
わたしは答えた。しかし、あまり長くなると困る。心療内科は、一人あたりの診察の時間には制限がある。堂々巡りの思考の患者の不毛な発言を防ぐのと、治療者の精神を守るための時間制限であるが、わたしは患者の感情の消化不良を防ぐため、ある程度キリのよいところまでは話を聞くことにしていた。
「先生、ドッペルゲンガーって知ってますか?」
男が話し始めた。突飛な切り口から入ってきたなと、わたしは思った。精神を病む人間はえてして社会性を喪失してしまっている。他者の世界観と自分の世界観を繋げるのが苦手なタイプは、自分の世界観を中心に話を展開させてしまう。この患者もそのタイプだったか。わたしとこの患者の距離感で、ドッペルゲンガーというテーマから話が始まることに不自然さを感じた。
「ドッペルゲンガー? あー、ええ、存じてます。詳しいわけではありませんが、もう一人の自分、という概念の妖怪というか都市伝説というか……ですよね」
わたしは答えたが、男の意識は少し飛んでしまっていたようだ。ぼーっとわたしの顔を凝視している。
「……すみません、どうかされました?」
「……あっ、いえ、すみません。この話を聞いてもらえるかと思うと、安心してしまって。ここ数日の間、どうしたものかと、わたしはこれからどうすればいいのかと、途方に暮れていたものですが……。ようやく、誰かに話を聞いてもらえる。それも心療内科の先生に聞いてもらえるなんて心強いですし、もう嬉しくて。ええと、そのドッペルゲンガーなんですが、どこから話をするのが一番いいかな……。では、わたしの仕事の話から話すことにします」
どうやら本題に入るらしい。
「先生とは付き合いが長いのでご存知でしょうが、わたしは半導体の工場に勤めてます。半導体なんて最近は外国製にシェアを奪われていますが、わたしの勤める工場は大手の子請けなもんで、なんとか経営が続けられているみたいです。まあ大手から仕事を請けているといっても価格競争が激しいものですから、いつ潰れるかわからないし、給料も安い。
わたしがカウンセリングにかかって──つまり先生と初めてコンタクトをとったのが二年ほど前だったでしょうか? わたしが刑務所から紹介してもらって勤め始めたのも病院通いとほぼ同時期ですから、今の勤め先で働き始めて約二年ということです。仕事はラインの流れ作業ですので難しい知識は必要なく、作業自体は簡単なものです。黙視のチェックが必要な作業ですので、まだロボットで作業がまかなえない工程に、わたしという人間があてがわれているというわけです。いえ、仕事に不満があるわけではありません。仕事の話をしたのは、仕事自体は簡単なものですが、それがなかなか疲れる作業だということを、先生に知ってもらいたかったのです。
作業は休憩を二回挟んでの一日八時間労働ですが、大量に流れる製品を瞬間的に、かつ入念にチェックを行います。三時間ないし二時間つづけてチェックし続けるわけですから、一日の労働を終えたあとには心身ともくたくたに疲れ果てて家路につくというわけです。今回のこと。今回わが身に起きた事件は、仕事を終えて疲弊した状態で帰宅した際の出来事でした」
「なるほど……大変なお仕事みたいですね」
この男はドッペルゲンガーの話題を切り口に話し始めていた。次いで仕事で疲弊するという状況。疲労からの幻視……わたしの頭をよぎったのは幻視の可能性だった。
「今言ったように、仕事の内容は単純労働ですので、たいして頭を使う作業ではありません。しかし気を使います。集中する時間が長いので、どうしても神経が疲れてしまう。こういう仕事を二年間続けて、慣れてきてもいるんでしょうけと、すり減っているところもあるのかもしれない。磨り減った神経が今回のこの事態を招いたのではないかと、何度も考えたものです。ええ、最初は──」
「というと、あやふやな記憶や幻視のようなものでなく、実体を、確信をもって見たということですか?」
わたしが言った。
「まあ有り体に言うとそういうことなんですが……いえ、やはりそういうことでもないですね。わたしの場合は、『見た』という経験だけではないのです。見て、聞いて、触れました。それはもう一人のわたしにしても同じで、もう一人のわたしもこのわたしを見て、このわたしの声を聞いて、このわたしに触れました。きっと相手も驚いたことと思います。いやもう、表情が驚いてましたから。初めてわたしを目の当たりにした時は目をカッと見開いて、口をあんぐりと開けていました。それはもう、わたしにしても同じだったと思いますよ。相手の目に映ったわたしも、きっと同じ顔をしてたんだと思います」
では、単なる幻視ではない。乖離性人格障害の可能性も考えられるか。
「それでその、わたしがわたしに会ったのは──と何度もいうのも分かりにくいですね……。わたしがアイツに会ったのはつい昨日のことなんです。昨日、わたしが仕事から帰ってアパートの部屋に入ると、部屋が暖かくなっていて、照明も点いてました。わたしは、『あぁ、エアコンと電気を点けっぱなしで仕事に行ってしまったみたいだ。電気代を無駄にしてしまった。反省しないと』と思いました。しかし、同時に違和感も感じていたのです。はて、今朝はそんなに慌ただしくはなかったはずだと。違和感を感じながらも靴を脱ぎ、廊下を渡り居間に入ると、アイツがいたのです。もうひとりのわたしが。
そこで対面したわたしたちは、さっきも言ったように、お互いに面食らいました。時間にして二、三秒のことだったと思います。お互い見つめ合ってしまって、事態が飲み込めない感じでしたね。初めて口を利いたのはアイツの方でした。『誰だ!? お前は!』と怒鳴り声で言われましたよ」
「それで、あなたは何と?」
わたしは男に聞いた。
「わたしは『お前こそ誰だよ!?』と言い返しました。あの時はわたしも相当混乱していました。自分のアパートの自分の部屋に、見知らぬ誰かが居てもビックリな出来事でしょうけど、わたしと同じ姿形の存在が部屋でくつろいでいたわけですから、もうわたしの理解を超えていました」
わたしの理解も超えていた。思い浮かぶのはやはり乖離性人格障害だが、同じ人格が同時に同じ精神に生み出されるというケースは聞いたことがなかった。一つの人格で環境や社会に適応し難い場合に、別の人格が発生するのが基本パターンだ。まったく同じ人格がもう一人いても、抱える問題の解決になりにくいと思うが。
「それから、どうなりました?」わたしはまた男に聞いた。
「アイツはわたしの名前を名乗りました。そして、わたしはわたしの名前を名乗りました。アイツはわたしであると主張し、わたしはわたしであると主張しました。可笑しな話でしょう? 同じ空間にいる二人の男が、同一のひとりの人間のアイデンティティを主張したのです。それからお互いに昔話を言い合ってみましたが、出てくる情報はお互いに記憶があり、正しいと思える内容だったのです。
しかし、そんなことはありえません。現にわたしは存在しているし、わたしという一人の人間が今まで生きてきたのですから。記憶の中のわたしは一人であって二人でない。目の前のアイツはわたしのことを正確に話しますが、わたしのはずはないのです。わたしは、この心療内科に通わせてもらっていましたので、精神病について先生から教わったことや、自分で調べて勉強したいくばくかの知識がありました。そこでわたしは、アイツと話をしながらも分裂症か乖離性人格障害を疑いました」
いい分析だと思った。自分で自分の症状を自覚している。実際、カウンセリングに来る患者はそれなりの知識を持っている場合が多い。彼らの多くはカウンセラーからの確定的な診断と治療方針が聞きたいだけなのだ。
「それで、症状を自覚した後はもう一人のあなた──ドッペルゲンガーは消えましたか?」
「消えませんでした」
「え?」
「消えませんでした」
「ということは、もう一人のあなたが、あなたの精神障害の症状だと自覚してもなお根づよく、あなたの周囲から消えずに見えてしまっている、ということですか? もしかしたら、今現在もドッペルゲンガーは見えてますか?」
「今は見えてません。彼は実体がありますから、この場にいたら先生にも見えます」男は言った。
どういうことか理解ができなかった。この男は分裂症様症状を自分で疑い、自覚したはずた。精神の病に対して『実体がある』と言っている。自分自身の症状をすでに分析しているというのが、かえって問題になってしまったかもしれない。誤解への思い込みを正すのは簡単にいかない場合が多い。
わたしはここで話を変えた。
「ところで、あなたが二人いたとすると、もう一人のあなたは今、どこで何をしているのですか?」わたしは男に質問した。
「アイツは今は家にいると思います。今日は仕事がある日なので、もしかするとまだ帰路かも知れないですけど」
「帰路? どこかへ出かけられたんですか?」
「仕事ですよ」
「仕事? 仕事はあなたが行ったのでしょう? それで、今は仕事帰りに不眠の受診に来院されたという流れの行動ではないのですか?」
「アイツはわたしと同じだったんです。経験も記憶も仕事も……」
男は口ごもった。強引に話を進めてしまったか? クライアントを混乱させてしまうのはよくない。
「では、今日はドッペルゲンガーが仕事に行って、あなたは何をされていましたか?」
「公園にいました」
「公園!?」
わたしは少し驚いた。
「はい。公園です」
「公園に行かれて、何をしていたのですか?」わたしは訊いた。
「特に何も。ベンチに座っていました」
「ドッペルゲンガーが仕事に行って、あなたは朝から公園にいたと?」
「いいえ。昨日の夜からです」
「昨日の夜から!?」
わたしはまた驚いた。
「ええ、頭の整理もつかず、気持ちも落ち着かなかったので」
「なぜ家にいなかったのですか?」
「アイツがわたしだったからです」
「え?」
「アイツがわたしで、わたしという人間だとすると、仕事に行くのも部屋に帰るのもベッドで眠るのもアイツがいればいいからです。この世界にわたしの枠は一つしかありませんから。アイツがわたしであるならば、アイツがいれば十分なんです」
「ええと。それはドッペルゲンガーがあなたと同一の存在で、あなたのポジションに収まったから、あなたは居場所を無くしてしまったということですか?」
「実際は少し違いますが、原理としてはそういうことです。椅子取りゲームに負けたということですね」
「どう違うのですか?」
「アイツが本体で、わたしがドッペルゲンガーということです」
「ええっ!?」
驚きの主張だ。この男は分裂症様症状、統合失調症様症状が出ていて、おそらく不眠症以外の治療の難しい精神疾患を患ってしまっている。しかし本人に病気の理解が見られたので、時間はかかるかもしれないが症状の程度と治療方針を話し合っていく流れになるものだと思っていた。想像以上に重度なのかもしれない。今の自分の環境に身を置き続けることにストレスがかかりすぎ、代替の存在を求めているのだろうか。わたしは男に同情した。
「とすると、もう一人がオリジナルを主張したことで、仕事に行くようになり部屋で生活し始めて、あなたはドッペルゲンガーになっったので居場所がなくなってしまったと?」 わたしはさらに質問を続けた。
「いいえ、そういわけでもないのです。そもそもアイツがオリジナルなわけですから、わたしにはもともと居場所など無かったのです」
「そんなことはないでしょう。今までの人生があるから今あなたはここにいるわけで……」
「わたしに人生なんてなかったのです。肉体と精神と記憶はありましたが」
「あの、説明していただけませんか? あなたはあなたとしての身体があり、記憶もあって、生活を営んでいた。ここに来院されていま現在わたしとコミュニケーションをとっている。あなたの過去が現在につながっているから、今こうしてこの場所にいるわけでしょう?」
「その前提に間違いがあるのです。わたしは身体も記憶もあるけど、生活はしていませんでした。本体はアイツ。オリジナルはアイツなのです。わたしは肉体と記憶を持つという存在だったのです。
おそらく古今東西、ドッペルゲンガーという存在は、わたしのような存在なのでしょう。わたしはドッペルゲンガーとして生まれ育った記憶を持っていません。そしてこの世界にわたしと同じドッペルゲンガーが何人いるのかわかりませんが、わたしはオリジナルの人間とは異なる存在だったのです」
「なるほど。あなたはドッペルゲンガーとなって、別の誰かに『オリジナル』になってもらい、自分の境遇を代わりに生きて欲しいと思うようになったというわけですね?」
わたしは自分の理解を男に確認してみた。
「いえ。そうではありません。わたしは存在していますが、ドッペルゲンガーなのです。繰り返しになりますが、オリジナルはオリジナルで、わたしはわたし。わたしはドッペルゲンガーなのです。この事態は先生の理解を超えていますよね。 常識を超えてますよね。 先生が事態を飲み込めないのは、仕方のないことです」
「では仮にあなたの方がドッペルゲンガーで、仕事に行って部屋で生活する彼の方がオリジナルとします。彼には彼の人生があり、物心ついた時からの経験と記憶と、社会的な繋がりをもってその居場所にいる。それは合ってますよね?」
「はい。それはもちろん合ってます」
「とすると、彼と同様の身体と記憶を持つあなたの存在はどこでどうやって生まれたのかという問題が発生します。
はっきり言います。あなたは本当は、あなたという一つきりの掛け替えのない存在で、二つと存在しないのです。あなたは犯罪を犯し刑務所に服役し、労働条件の悪い今の境遇に負荷を感じ、もう一人の人格を作り出してしまった。あなたはオリジナルなんです。ドッペルゲンガーなどではあり得ません」
わたしは強く断言した。
「うふふふ」
男は笑った。
「何かおかしかったですか?」
「うふふふ。やはり簡単には信じてもらえませんよね。そうですよね、そう考えるのが普通です。そう考えるのが常識的です」
「あなたには残念なことかもしれませんが、あなたはあなたなんです」わたしは言った。
「ところが、わたしはドッペルゲンガーなんですよ」
「なぜ、そう思うのですか?」
「初めてアイツと会った時に、どっちが本物か話し合いました。その時は、わたしは間違いなくわたしであって、わたし以外の何者ではないという気持ちがありました。でも話をしているうちに、だんだんと思うようになってきたんです。もしかすると、わたしの方が偽物なんじゃないかって。その時の話の内容はこうです。わたしが仕事からアパートに帰るとアイツは部屋でくつろいでいたわけですが、その日アイツが仕事をしていなかったのは当然だったのです」
「というと?」
「その日、わたしは非番だったのです」
「は?」
「二日前のその日、わたしは非番だったのです。なのにわたしは仕事帰りで家路につき、アパートに帰ってきた。その時には今日も一日の仕事が終わったという体感がありましたが、その日に仕事をした記憶がなかった。その日の配属はどのラインで、何を考えてどういう思いで仕事をしたのかがさっぱり思い出せなかった。
毎日毎日おなじような作業の繰り返しですから、マンネリズムで何も思わずに仕事をしてしまったのではないかとも考えましたが、そもそも非番では職場にわたしの椅子はありません。非番の日に仕事に来たら、いくらなんでも職場の誰かは気づいてくれますから、非番の日に仕事を終えて帰るなんてことは、不可能なのです。
そしてどうアイツと話して状況を現実にすり合わせても、わたしの存在はありえなかったのです。そしてどう思い出そうとしてみても、わたしの記憶は──短期記憶は、仕事帰りから始まっていたのです。
そしてわたしは、昨日公園で野宿しました。公園に夜通し一人でいたのです。一人でいて自分自身とじっくり向き合ってみました。すると、少し前までわたしはわたし、つまりアイツと思い込んでたはずなのに、記憶が次第に薄れていったのです。アイツであった記憶が消えていき、ドッペルゲンガーとしての、本当のわたしを自覚していきました。自分が自分に目覚めていくあの時間ときたら!
わたしはとても興奮しました。とても気持ちのよい覚醒の時間でした。ドッペルゲンガーとして覚醒したわたしは、自分の存在理由をはっきりと自覚しました。先ほども言いましたが、部屋に帰ってあの男になろうとしたわたしは本能のままの行動でした。わたしの存在理由は、本能は、目的は、誰かになり代わることなんです」
ギラギラとした眼差しで男は一気に説明した。男の主張は狂気じみていた。あり得ないことだが、もしこの男が言っていることが本当なら、この男の、人として存在はフェイクということになる。人ではなく本物のドッペルゲンガーということになるだろう。しかし、そんなことはありえない。精神疾患のセンが濃厚──というか、それで間違いない。
さっきの話では、仕事が大変だと言っていた。マンネリズムを感じているとも。殺人の前科がある男が、現在の勤め先に不満を持っている。中年で家族もいず、現状にしても未来への展望にしても、閉塞状況にあることに問題がありそうだ。この問題を打開するには周囲の環境が変わる、環境を変えるのが効果があると思うが、男の前科と年齢を鑑みて難しいだろう。さて、どうしたものか──。
しかしなんてことだ。快方に向かっていたと思っていた患者なのに、重度の症状が出てしまった。今日のうちにもう少し症状の分析を進めておいたほうがいいだろう。娘の誕生日ではあるけれど、こうなったのも、重症化の兆候を見抜けなかったわたしの責任だ。わたしはため息をついた。
男は続けて言った。
「先生、わたしは実は病気ではありません。病気ではないので、治療を望んでいるわけでもないのです」
少し冷静さが見られるようになったようだ。さらに続けて言った。
「わたしは気づいたんです。仕事帰りから記憶が始まるわたしは無意識で、本能による行動でした。
生まれて初めて狩りをする猫が、狩りの仕方を自然に知っているように。生まれて初めて巣から飛び立つ小鳥が、翼の羽ばたきを知っているように。わたしは本能的にドッペルゲンガーとして、アイツに成り代わろうとしていたのです。うふふふ」
男は笑った。わたしの目をまっすぐに見ている。頭の奥がズキッと痛んだ。
「今はもうドッペルゲンガーの本能として、わたしが為すべきことを知っています。わたしは無意識的にもそれを行おうとしますが、意識的にもそうしたい。そういう衝動がある」
どういうことだ?
それにしてもこの男は思い込みが強い。このまま帰すのは良くなさそうだが、この症状の治療は一筋縄ではいかないだろう。わたしは思案した。頭がズキズキと痛む。
「大丈夫ですよ、先生。わたしは正常です。もちろん正常というのはドッペルゲンガーとしてですが。昨日までのわたしは生まれたての赤ん坊のようなもので、未熟でした。本能でなんとなく動いていたに過ぎなかった。
しかし今は違います。わたしはドッペルゲンガーであることを自覚しました。ドッペルゲンガーである自分自身と向きあい、為すべきことがわかりました。今は、これからわたしがすることに、楽しみと使命感を持っているんですよ」
この男は完全に自分が自分でないと思い込んでいる。逃避が極まってしまい、自分の環境から離脱したかったのだろう。いずれにせよ、ここまできてしまったら治療は簡単にはいかない。とりあえず今日のところは穏便に、話を合わせるに留めておこう──。
「あなたが使命感を持つ、その、為すべきこととはいったいなんですか?」
私は男に聞いた。
「うふふふ」男はまた笑った。
「仕事帰りのわたしは無自覚でした。本能で動いていたのです。しかし、今は違う。本能も使命も感じています。無自覚のわたしは、誰でもよかったのかもしれません。今は意識的に動いていますので、選んでいます」
男の目つきが変わった。一瞬で空気が張りつめた。
(ゴクリ……)
わたしは男の迫力に圧され唾を飲み込んだ。
「前科があり、望む職に就いておらず、精神の不安定な中年男より、愛する妻も子もいて、社会的な地位もある先生の方が、幸福そうだと思ったんですよ。良さそうだと思ったんですよ」
戯言だ。しかし、異様に迫力がある──。異常者の迫力だ。額に汗が滲む。空気が張りつめているように感じる。わたしの本能が、男に恐怖を感じているようだった。
「ところで気づいていますか? 看護師さんはどこに行きました? 少し部屋が暗くなってないですか?」
言われてみれば、少し暗くなったように感じる。看護師長も見当たらない。診察は一対一では行っていない。看護師長がわたしに声をかけることもなくここから出ていくなんて考えられない。
「どうされました?」
男が聞いてきた。わたしはなぜか焦りを感じた。なんだろう──催眠術だろうか? 男がわたしを見ている。表情はうっすらと笑っているようだ。空間に歪みを感じた。わたしの背中に冷たいものが流れた。
部屋はますます暗くなり、空間がぐにゃりと大きくうねった。
「うふふふ」男が笑った。
わたしは気絶した。
「……どうされました? 大丈夫ですか?」
声をかけられ、わたしはハッと我にかえった。どうやら意識が飛んでしまっていたようだ。
「お疲れのようですねー。睡眠導入剤ですが、効きが良くないようでしたら用量を増やしても構いません。いつもは半錠を服薬されていると思いますが、一錠飲まれても大丈夫です。ただ、あまり薬に慣れ過ぎても良くないので、どうしても眠れない時だけにしておいて下さい」
目の前の医者が言った。
「はぁ、どうもありがとうございます……」
「二週間分、出しておきます。とりあえずそれで様子を見てみましょう」
医者に言われた。そうだ、わたしは不眠症で通院していたのだ。
「大丈夫ですか? お仕事は大変ですか? 頑張るのはいいことですが、お身体に無理があると良くありません。たまには有給を使って休むというのもひとつ方法ですよ」
そうだ。
わたしは前科があって工場に勤めていて──。
なにか、大事なことを忘れているような気がする……。帰る場所? なんだろう。帰っても帰る場所がないような気がする。なんでだろう? いや、それよりも大事なことがあったはず。とても大事なこと。忘れてはいけないことが──。
「では、お薬が切れたらまたお越しください。お大事にどうぞ」
医者が言った。わたしは医者を見た。
「うふふふ」
医者が笑った。
わたしは何か大事なことを忘れている。
思い出せないなぁ。
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