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「生存者バイアス」のレッテルを貼る前に

先日気になるポストを見た。


「若い頃はハードワークすべき、という意見は”生存者バイアス”である」


という主張だ。

成功者は20代でのハードワークの重要性を説く。
一方で、その裏にはハードワークに見合った対価を得ることができず、日の目を見ることのなかった無数の屍が眠っている。
ハードワークを盲信し過ぎると、自らの心身を壊してしまうこともある。
よって、成功者のハードワーク信奉論は信じず、ストレスのない生き方をするべきだ。


リプライからすかさず転職サイトへ誘導する情報商材屋によるこのポストは、多くの若者の支持を集めていた。


実にイマドキらしい優しい格言だ。


令和の時代、これが共感を呼ぶだろうことは容易に理解できる。


ただ、手放しでこの意見に賛同しているようでは、世界に対する解像度が幾分か足りてない、と言わざるを得ない。



甘い。甘過ぎる。



生存者バイアス?



そんなもの当たり前だ。



この世界は、あなたが生まれ、そして死ぬその日まで、生存者で回っている。



30半ば、ブラックと働き方改革の狭間で"生存を目指す世代”として、私見を述べさせて頂く。

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一昔前まで、上記のような論調は表に出にくかった。

なぜならば、"成長(生存)こそが美徳であり、そのためにはハードワークや教育が必要だ"という概念が基本筋として合意されていたからだ。

ところが、昨今は各種ハラスメントの増長働き方改革により大きく事情が変わった。

もはや「楽」「辛くない」が最重要事項として重視されつつある。



病院も例外ではない。

僕がたまに顔を出しているA病院の話をしよう。

A病院では、少し前から異様な光景が見られるようになった。

A病院は、古い中規模病院だ。

医者も少なく、お世辞にも盛り上がっている病院という雰囲気はない。

A病院は10年ほど前までは研修病院としてあまり人気がなかった。

理由は簡単で、近隣には大病院ブランド病院がたくさんあるからだ。

これらの病院に比して、A病院はハード面でも教育システムの面でも劣っていた。

規模の小ささから経験できる症例も限られ、重症例や難症例は近隣の大病院に転院搬送となってしまう。

また、医者のマンパワー不足により、確立した教育システムも構築されていなかった。

そんな研修病院としては日の目を見ることがなかったA病院だが、昨今は研修医にとって異様な倍率の人気病院となっている。

教育システムに改革があったわけではない。医者の数が増えたわけでもない。


ではその人気になった理由は?


答えは「楽なことに目をつけた若者が増えたから」だ。


教育プログラムが充実していないということは、能動的に学ぼうとしない限りとことんサボれるということの裏返しでもある。

A病院はその規模の小ささ、医者の少なさから教育に割けるリソースは限られている。

よって慣習的に研修医の担う業務量は極めて少なくい。

処理するタスクも周囲の病院と加え格段に少ない。

「ここは手を抜こうと思えば、どれだけでも抜けるぞ。」

そんな不名誉な理由で、A病院は空虚な人気病院になってしまったのだ。

志望してくる研修医も、研修終了後すぐ自由診療へと旅立つケースが大半だ。

「研修自体はなるべく手を抜いてストレスなく終えたい。」

こんな調子でハードワークを徹底的に拒否する考えが蔓延した。

結果として、現場に来なくなった研修医に自然な形で教育を提供することは困難になった。

それでも病院は研修システムの制度上、教育を放棄することはできない。

結果的に、上司は、望んでいない部下に自ら連絡をし、形式的な教育を与えるという誰得の虚しい儀式が繰り広げられている。




教育は上司にとっての「義務」となった。

そして学ぶことは部下にとっての「権利」となったのだ。

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「それって生存者バイアスですよね?」


上司からの教育やアドバイスに対するこの返答は、はっきり言って愚かと言わざるを得ない。

まず大前提として、人生において生存者バイアスは”忌避すべき対象”ではない。
むしろ、生存者バイアスのゴリゴリ掛かった意見こそが成功への近道だ。


その理由は再現性という概念で説明可能である。

現実世界は化学実験ゲームの世界と異なる。

厳密な意味での再現性というものは存在しない。

個人個人の全ての環境条件をそろえて検証することはできないし、同じコマンドを入力しても違う答えが出現する。
気に入らないからと言ってセーブ地点まで戻って、選択肢を選び直すこともできない。


時の流れは一方向性で、その時その瞬間に判断したことの積み重ねこそが全てだ。

「完全な再現性」は存在しない。

そんな中で、一度しかない分岐点で正解に近い道を選ぶためのヒントが生存者バイアスに隠れている。

なぜならば、そのバイアスこそがまさに生き残るための知恵であり、それを可能にした哲学だからである。

実際にどの業界でも突き抜けた人はそれに伴うハードワークを必ずこなしている。

そこへの向き合い方は、「でたでた、生存者バイアス(笑)」と皮肉って嘲笑うことではない。


真正面から食ってみて、その概念を咀嚼し自身で消化することである。

消化し、自らの血肉として何かを成してステージを上げることで、自分なりの生存者バイアスのエッセンスを作り上げていくのだ。


その咀嚼の中で、ハードワークの程度と自身の能力を照らし合わせることも必要だ。

言うまでもないが、ハードワークで自身の健康を回復不能なほど損なってしまっては元も子もない。
そもそもそれは「生存」と矛盾している。


「生存者バイアス」は、何かを諦めるための言い訳や、選択肢を切り捨てるために乱用されるべき言葉ではない。

「色々言うけど、結局生存者バイアスじゃん」


この考え方は、教育やハードワークの概念と共にに自身の可能性すら切り捨ててしまう恐ろしいシロモノだ。

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そして最後に一つ。


昨今のトレンドは行くところまで行ってしまったという考え方もある。


冒頭の情報商材屋が真に意図しているメッセージはこれだろう。

「別に成長なんてしなくて良い。楽で辛くない道を選び続ければ良い。そしてその業界内で生存できなくなればまた別の場所で生存すれば良い。」

これはすなわち、「生存」の定義が以前と変わってしまったことを示唆している。


情報商材屋の言う「生存」「在りたい自分で在る」ということを意味していない。

ただただ「楽に」「辛くなく」生命として存在すること自体を目的とした「生存」だ。



もしも目指す「生存」の定義が異なるのであれば、ここに議論の余地はない。



在りたい生き方を目指す「真の生存」への道にはハードワークは必要だ。

そして持続的に走り続けるテクニックとして、緩急をつけ燃費良く走ることも勿論大切である。

ただ、それはあくまで能動的にアクセルを踏みこんで目的地を目指す場合の話だ。

目的地すらなく、頭の後ろで手を組んでノロノロとクリープで走りながら一生を終える生き方とは根本的に異なる。


他者に「生存者バイアス」のレッテルを貼りつけるあなたに問いたい。






あなたにとっての「生存」はなんですか?





ここまで読んでくださってありがとうございます!!

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