「老害」という言葉の卑怯さについて
最近、「挨拶しない自由問題」や、「新人電話取らない問題」など世代間の対立を浮き彫りにさせるようなコンテンツをよく見かける。
やはり働き方改革やライフワークバランスによる弊害が各所で見られ、社会全体のフラストレーションが溜まっているのだろう。
メディアがそれを正確に伝えようとしているかどうかは別として、素材として選ばれている時点で、「皆の関心ごと」であることは間違いない。
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そんな世代間対立の象徴とも言える言葉に「老害」がある。
ひと昔までの「老害」は、既得権益にしがみつく高齢の政治家や、企業役員なんかが取り沙汰され、世間からやっかみの対象となっていた。
本来の意味は”指導的地位にありながら、古い考えで社会を硬直させる高齢者”、ということらしいが、まさにそんな感じだ。
ところが最近ではあまりに至る所で汎用されている。
例えば職場である。
上司から少し負担の大きい仕事を振られた時
うまくいかなった業務に対して改善点を指摘された時
仕事終わりに付き合いで飲みに誘われた時
部下の気分一つで何でもかんでも「老害」にされてしまう可能性がある。
という意見は重々承知だが、そもそもそういうことを言う奴と信頼関係は築くこと自体が極めて困難である。
忙しい中、上司から能動的に関係を築こうとはならないので意味はない。
さて、この「老害」と言う言葉、言われてみるとなんとも言えない気味悪さがある。
僕が先日初めて、老害認定をいただいた時の話をしよう。
記念すべきその場所は職場ではない。
Xである。
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多くの人に読んでいただいた教育のnoteがバズった時だ。
このnoteを書いてすぐ、自分より若いであろう方から
「こういうことを言うやつは典型的な老害だ。」
と意見を頂いた。
意外にも僕の中に「怒り」や「反論したい気持ち」は湧き上がってこなかった。
まずは沸いた感情は「諦念」である。
「そう思うんなら、それで良いけど…」
という諦めに似たような気持ちである。
そしてその後に言いようのない「気持ち悪さ」を感じた。
「老害」
まずはその字面自体の問題である。
「害」という言葉。
いかにも公に不利益をもたらすような雰囲気がある
つまり発言する自分自身の意見として「不快に感じた。」
というものでなく、
「老害」という言葉を使うことで「公に、みんなからみて、害ですよ」というニュアンスが出る。
発言した当の本人はこんなことは全く考えていないだろう。
気軽にそこにあった「老害」という言葉を当てはめただけだ。
ただそこには無意識に、自分の責任で相手を批判するのでなく、その「公」の力を借りて相手を批判する姿勢がある。
その「他責思考」こそが、この言葉の持つ卑怯さである。
生々しい他責思考を真正面から見せつけられると、言われた側は絶句してしまうのである。
僕は30半ばだから、年齢で言えば相手と10歳も変わらないだろう。
その程度の差の相手に対して、他責思考にまみれた「老害だ!」を叫ぶ姿に、かける言葉がなくなってしまうのだ。
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それに加えて、現場レベルで言えば「老害」と形容されるような人達は、どんどん減っているはずだ。
団塊の世代は引退の時期し始めているし、そもそも日本の人口自体が減少している。
加えて異常な数のハラスメントが叫ばれる社会になり「厳しい指導」「自己研鑽への強い圧力」「長時間労働の負荷」はほとんど見かけなくなった。
にもかかわらず、世の中には至る所で「老害」という言葉が溢れている。
その理由は?
明白である。
「老害」という言葉自体が、発言する人の他責思考から生み出される産物だからである。
発言する人自身が、他責思考の中から、目上の不満の対象を見つけては「老害」というレッテルを貼り、自分自身で「老害」を作り出しているのである。
他責思考の人は満足することがない。
安易に「老害」を濫用する人は、その対象とする人が現場からいなくなっても、次の不満の対象を探すだろう。
自分の中の他責思考の中から次から次へと「老害予備軍」が沸いてくるのである。
他責思考と「老害」という言葉は非常に相性が良い。
「はいはい。それは老害ですね(笑)」と己の溜飲を下げている間は、一生満足することができない。
その「老害」という言葉の卑怯さに頼っているうちは、世界は変わることはない。
内なる他責思考を壊さない限り、不満の対象は蘇り続けるのだ。
まずは、自分自身を変えていく必要がある。
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今現在、社会では凄まじい勢いで教育や指導のコストが削減されている。
その大きな流れに加えて ハラスメントを逆手にとって自身の怠慢を社会の問題にすり替えるような他責思考は、若者にとって、自らをどんどん不利な状況に加速させてしまう。
教育や指導が受けられないままでも人は年を取る。
仕事もできない責任も取れないオジサンが大量に沸いている社会は控えめにいっても地獄だろう。
僕も30半ばで、心臓の医者として、ようやく独り立ちした若手くらいの立場だ。
そして医療の外の世界に出てしまえば、全くの雑魚であり、SNSのフォロワーなんてイモムシ以下である。
当たり前だがそんな存在の僕に他責思考は許されない。
僕は老害万歳、ブラック労働万歳、会社にも心も捧げようと言いたいわけではない。
現に副業を始めているわけだから、ある意味勤め先に不義理をかましているわけである。
今は、人を縛る縄がどんどん緩くなっている時代である。
それを自由の獲得と喜ぶのは大いに結構だが、そこには必ず責任が伴ってくる。
時代は移ろい、常に最適解は変遷していく。その波を捉えて立ち振る舞うことが大切だ。
ただ、そんな移ろいの中でも明確なことがある。
どんな時代においても、他責思考は自分をどこへも連れて行ってくれない。
他責思考をなくさない限り、社会がどんなに変わろうと、周りから自分自身が「老害」と名付けた幻想が消えることはない。
他人にレッテルを貼る前に、己に自責の杭を打ち込む必要がある。
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