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教育は静かに終わりを告げようとしている

最近話題のやりがい問題について、思うところがある。

猫山課長の裏note, 裏ラジオでも語られていた内容だ。


若手の方は絶対にこれらのコンテンツに触れた方が良い。

今の時代を勝ち抜くのに必要なエッセンスが凝縮されている。

僕は30代半ばで、猫山課長よりおそらく一世代若い。

僕らの世代はギリギリハードワークが許されたが、すぐ下の世代から働き方改革丸出しといった感じの世代である。

30半ばの「ようやく自立した若手」の立場から私見を述べたいと思う。

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最近は「ライフワークバランス」や「働き方改革」といったいわゆる労働に対するネガティブな動きが盛んだ。

今の新人にとってみればもはや上記の概念は常識になっている。


ただ、断言する。

正直、上司はうんざりしている。


自分たちの享受していない制度の、よくわからないプレッシャーに戸惑っていると言ってもよい。

僕らの業界でいえば「研修医」が新人に当たる。

以前は医者人生の中で最もハードといえる時期でもあったが、昨今は他職種同様、働き方改革の影響を強く受けている。

以前は研修医といえば、組織の最下層であった。

朝早く病院に行き雑用を完璧にこなした上で、常に指導医に張り付くことで、

「じゃあ、ちょっとやってみるか?

と貴重な手技のチャンスをもらいながら成長していくのだ。

医療は失敗が許されないシビアな世界だが、1度目がうまくいけば、2度目のチャンスをもらえる。

常に先回りして予習をし、準備万端で待ち構える姿勢が当然であった。

昨今は全然事情が違う。

僕が手術を手伝いに行っている総合病院ではそもそも研修医が病棟にいない。

研修医室に籠って同期とくっちゃべったりなど日常茶飯事だ。そのくせ自身の労務管理などには結構うるさい。

「そんな奴はほっとけばよい。」

と誰しもが思うだろうが、研修の規定には「~~を経験すること」など細かく定められている。

それを満たさなければ研修の指導が不十分という判断になってしまうのだ。


なので今は指導医から研修医に連絡する。

「〇〇君、~時から手術をするんだけどよかったら見にくる??忙しかったら大丈夫だけど…」

なんとも信じがたい馬鹿げた話だ。


そして誰しもが思っている、

「なぜこんな面倒な奴らの機嫌をとって教えてやらねばならんのか」

と。


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確かにこれは時代のせいでもあると思う。

僕らや上司が経験しなかった空気感であるため、彼ら個人を一概に否定することはできない。

考えは人それぞれ自由なのだから、「働き方改革(笑)」のせいにしてもいいし、令和の時代を盾に踏ん反り返っているのも自由だ。


ただ、上司は馬鹿ではない。


「いいよいいよ、やっとくよ。先に帰りな。」

その言葉の中には彼らが思っているほどの優しさはない。

ではパワハラを恐れてしかたなく言っているか、と言えばそうでもない。

実際はこうだ。


「それ、自分でできないと困ると思うよ。まあもう知らんけど。」


教育には手間がかかる。

自分でやってみればわかるが、時間はとられるし、自分の業務とダブルワークとなるため集中力や注意力も消費される。
期待通りにいかないことが当たり前のため精神的にも疲れる。

そこに加えて以前と違って部下への配慮も求められる時代だ。

部下が相手だろうと気を使うことは大切だが、それに対して時代や制度を盾に刃向かう若造に愛を持って指導する上司はいない。


そこで現在起きていること、それは、"見捨てる"ということだ。

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僕は複数の病院で働いているが、多くの場所で教育に対するコストは静かに削減されているように感じる。

一つの例として僕が働くA病院の話をしよう。

A病院では、新入職の職員に難症例を担当させなくなった
それと同時に、指導する医者の数を減らした。

要するに、「難しいことはこちらでやるから、簡単なものだけサッとこなして定時で帰ってよいよ。」と言うスタンスだ。

もちろんこれではよそで使い物にならないし、いつまで経っても独り立ちはできない。

つまりA病院の中で最下方の歯車としては機能するが、それ以上にはなれない。

いってしまえば茹でガエルとしてただただ飼い慣らされていくのだ。

当の本人たちは、どこか

「え、仕事ってこんなんでよいの??」

と肩透かしを食らったような顔をしているが、一方で、思ったよりも大変でないこと、定時で帰れることに満足していそうだ。

僕が入職した頃は、いきなり難症例を担当させられた。

当然定時になんて終わるわけもなく、文献を調べたり、方針を指導してもらったり、遅くまで働いた。

そして、なぜか上司も自然と遅い時間まで残って仕事をしていてくれた。

僕にとっては残業時間は絶好のチャンスだった。

上司に忙しい日中業務の合間に時間をとってもらうより、どこか少しoffのノリで質問ができる。遮るものもないし、手取り足取り勉強させてもらった。

飲みになんて行けてしまえば占めたものだ。とっておきのチートな方法まで聞けることもあった。


一方今は、コロナ禍を経て、ずいぶん変わった。

A病院でも定時を過ぎればほぼ医者はいない。

当然、新人たちも質問したいことはあると思うが、周りに上司がいなければ仕方ない。

「うーん、みんな帰りそうだしまあいっか。帰ろう。」

そんな気持ちなのだろう。

かく言う僕も、その程度の部下をわざわざ引き留めてまで教えるほどのお人よしではない。

いろんな気持ちをグッと抑えて

「お疲れ様。あとはやっておくし、俺もすぐ帰るから、あがっていいよ。」

と告げている。

こうして静かにA病院の教育は静かに終わりを告げ始めている。

何か会議があったわけではない。

上層部の方針として打ち出されたわけでもない。

上司たちの誰しもが口には出さないが、皆が”そっと教育を終了していくこと”に合意しているのだ。

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もはや教育は無条件に与えられるものではなくなった。

つまり「教育してもえるかどうか」ということが一つの足切りラインとして追加されているのだ。

ここまでくると、今の新人たちのほうが不憫に思えてくる。 
無条件で教育されてきた僕らや上司たちにはわからない苦労があることも十分に理解できる。

だが、上司は上司で、厳しい教育の中を血反吐を吐きながら必死に生き抜いてきたという自負がある。


両者は一生分かり合うことが出来ない。



「それでも良い。」少なくとも上はそう思っている。


なぜ?


結局勝つのは、チカラがあるものだからだ。


知っているのだ、結局はチカラが全てを解決することを。

自分で全責任を持ち、戦ったことがある上司は知っている。

どんなに嫌なヤツでもタフでチカラがあるやつは信頼できる。なんだかんだで尊敬できるし、意外と上手くやっていける。

いつか自分一人の責任で何かに立ち向かう時(来ないかもしれないが)、声高にライフワークバランスを叫んでいた人は助けてくれない。


自分の選択した先がどう未来につながるか。

一度立ち止まって考えると、仕事に対する姿勢も変わってくるだろう。

偉そうなことを言っているが、正直、僕も自分の意思の弱さや時代の流れに呑まれてサボってしまうことがよくある。

なので、最近はコストを払ってでも、自分を奮い立たせるようなコンテンツに触れるようにしている。

今の時代は自ら能動的にお金を払って教育を受ける必要がある。

そして、その先の世界には同じように、同じくして自ら飛び込んできた人たちがたくさんいる。

この世界はとても居心地が良いし、そういった人たちとの交流が、またさらに自分に刺激をくれる。

僕も”教育を自分から自ら受けにいく人たちが集まるステージ”で、誰かの役に立てるよう発信していきたい。

そして、そのステージは、すでに”職場”ではなくなってきている。




ここまで読んでくださってありがとうございます!!

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一緒に皆さんと成長していきたいと思っています。よろしくお願いします。



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