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新約聖書が書棚に並びました (1757文字)

 私は特定の宗教を信仰しているわけではないのですが、信仰が世界史上のできごとに大きく関与していることは承知しています。

 だから、いつかは少なくても世界三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)の聖典(「せいてん」その宗教の教理・教条・戒律・儀軌[「ぎき」法則。儀範<「ぎはん」よりどころとすべき規範>・儀法<「ぎほう」きまり。おきて。>。]などを記した書物。)を一度は読んでおきたいと思っていました(仏教は経典が多そうですから、代表的なものを選びます。)。
 しかし、喫緊(「きっきん」さしせまって大切なこと。)の問題ではなかったので、今まで経典の類(たぐい)が書棚に並ぶことはありませんでした。

 仕事で出張したときに宿泊するホテルにキリスト教の聖書や仏教の本などが備えてあり、それは持ち帰ってもいいとそうなのですが、「経典をただで持ち帰るってどうだろう。」と思い、持ち帰ることはありませんでした。

 でも、今回新約聖書が手に入りました。
 凄く薄いので、はじめは聖書だと思いませんでした。

 とにかくそういうわけで、新約聖書が私の書棚に並ぶことになりました。

 まだ読む気にはなれませんが、パラパラとページをめくってみると、紙の薄さに驚きました。
 「なるほど、600ページくらいあるのに、厚さあ1.3センチくらいしかないのはこんなに薄い紙を使っているからだったのか。」と思いました。
 この聖書、コンパクトになっていますが、紙が薄いがゆえに裏のページに印刷している文字が表のページに透けて見えるので、若干読みにくい感じがします。

 そこで、100円ショップで色画用紙(10色・20枚 12.5センチ×17.3センチお大きさ)を買ってきて、黒色の画用紙を新約聖書の読むページの裏に挟み、読みやすくしました。

 ところで、私は以前から「法律の編成と聖書の編成とは似ているんじゃないだろうか。」と思っていました。

 例えば、民法。
 民法の編成は、大きな分類から小さな分類の順に「編章節款目」となっています。
 例えば、民法424条(認容判決の効力が及ぶ者の範囲)は、「第三編債権 第一章総則 第二節債権の効力 第三款詐害行為取消権 第一目詐害行為取消権の要件」の編成下で規定されています。

 近代資本主義国家は、キリスト教のプロテスタントにより作られていますから、「神の領域については聖書により定められ、人間界の領域のことは法典に定められている」はずですから(そう思うので)も同じような編成なっているのだろうと思っていました。

 ですからそのつもりで新約聖書を見てみると、微妙に違っていました。
 例えば、詩篇(しへん)の1の1に「悪人の入れ知恵に耳を貸したり、・・・。」とありますが、これは、 【詩篇1篇1節】 と表記されています(p523 「新しいクリスチャンのための聖書トピックス」の「◆アカウンダビリティ(責任)」  参照)。
 ちょっと違いますね。

 でも、聖書の内容を引用するときに、その引用文が聖書のどこに書かれているのかを特定できるようにしていることは、法典と同じです。

 とはいえ、聖書の古いもの(写本本くらい古いもの)には篇番や節番は書かれていなかったと聞いたことがあります。
 私が思うに、聖書を重視するルターの時代以降、つまり活版印刷でドイツ語訳の聖書が作られた時代から篇番や節番が付加されたのではないかと想像します。このようにすることによって、司祭によらずに庶民だけで聖書の内容を正確に理解することの助けになっていると思います。

 テレビでコメンテーターが法律に触れる話題について議論するとき、法典など見ないで語るので話がめちゃくちゃになり、なんの成果もなく時間だけが無駄に消費されることになります。

 宗教改革を境に、聖書を持って神の領域について議論し、自分の見解を聖書の記述を示して主張できますし、相手の主張に対しても聖書の記述を示して反論できることになりますから、議論が進歩します。
 たまに、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の主人公ハンスも神学校で聖書の該当部分を探し、示し、解釈するという勉強をやっていたのかな、などとこの本を読んだ頃(中学生の頃でした。)を思い出すことがあります。

#新約聖書 #宗教改革 #車輪の下 #法典
 

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