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津軽半島一周の旅

 本州の北端・青森県は、南部に十和田八幡平国立公園があり、十和田湖・奥入瀬渓谷、八甲田山や温泉・スキー場などの観光名所があるが、陸奥むつ湾を囲むように、右側(東側)に下北半島、左側(西側)に津軽半島があり、3つの全く異なる風景が広がっている。両半島を分ける平舘たいらだて海峡を抜けると、津軽海峡につながり、青森側から北海道側まで一番幅が狭いところは、下北半島の大間崎から18.7キロメートル、龍飛崎から約19.4キロメートル。

(タイトルの津軽地域地図は国土交通省ホームページから引用)

 十和田八幡平地域には何度か足を運んだが、両半島地域はアクセスの問題があり、訪れるチャンスがなかった。

 前の投稿「北東北温泉紀行」で、龍飛崎までの旅行については少し触れたので、本編は、その後半になる。

尻屋崎・恐山・薬研温泉〜初めての修学旅行は相当変わっていた

 下北半島には、一度だけ行ったことがあるが、大昔の話。中学2年生の修学旅行は、旅行代理店に頼らず、鉄道研究会が部活の一環で自主企画した。往復に上野発着の夜行急行列車を利用するりようだ。往路は東北本線経由で青森のちょっと手前の野辺地のへじで国鉄大畑線(2001年廃線)に乗り継ぐ。終点の大畑駅で待っていた地元の観光バスに乗り、尻屋崎や恐山など下北半島の「観光名所」を巡って「たどり着いた」のは、薬研やげん温泉という山奥の一軒宿だった。私が通った中高一貫教育の中学校は生徒の自主性を重んじたようだが、今から考えても「渋い」選択。青森県の中学校でも、そんな修学旅行はしないだろう。

 この修学旅行、2泊目は、青森を素通りして、城下町の弘前だった。弘前唯一の思い出は、何と国鉄駅のホーム。運行開始間もなかった青森発の大阪行き夜行寝台特急「日本海」を見に、弘前駅に行き、夕食に遅れて怒られたのを覚えている。次の日は五能線か(せめて)花輪線に乗るのが当初の計画だったが、さすがに「やりすぎ」と賛同を得られず、バスで十和田湖を周遊観光して盛岡に回ることになった。ちなみに帰路は奥羽本線・常磐線経由だったと思う。企画したO君はその後大手旅行代理店に就職して旅行企画を本職にしたが、10年くらい前に亡くなったという風の便りを聞いた。鉄道ファンだったM君と一緒に、毎日のようにO君達の企画チームに意見や提案の「圧力」をかけていたのが思い出される。

原発通りになった下北半島


戦後開拓に「失敗」した農民から土地を買い上げて、各種の原子力発電関連施設が建設されている

 恐山にはいつかもう一度行って見たいと思っていたが、下北半島は原子力発電所と使用済み燃料の再処理施設・貯蔵施設などが5箇所も建設(一部建設予定)されている「原発銀座」。どうも、足を向けたくなる場所ではなくなった。そこで、今回は、唯一未踏だった津軽半島を訪ねることにした。

 岩手と秋田の秘湯を巡り、盛岡に抜ける総旅程2,000キロに及ぶドライブ旅行で、当初は青森県・黄金崎の不老ふ死温泉から盛岡に直行する予定だったのを当日変更し、龍飛崎で半島の北端に辿り着き、陸奥湾沿いに青森まで南下するコースを走った。

 黄金崎・不老ふ死温泉〜(国道101号)〜深浦〜鯵ヶ沢〜(県道12号)〜十三湖〜(国道339号)〜龍飛崎〜三厩みんまや〜今別〜(県道14号)〜小国峠〜蟹田〜(国道290号)〜青森自動車道・青森中央IC→盛岡

(龍飛崎から先は、陸奥湾沿いの狭い国道をひた走る。急ぎ足のドライブで、途中、景勝地や写しておきたい番屋などの魅力的な建物が連続したが、何と、レンジファインダー式カメラのキャップをはめたままだった。結果、残った写真は龍飛崎時の1枚のみとなった)

鯵ヶ沢あたりで川を渡る橋の奥に、秀峰・岩木山(1,625m)が聳える
(唯一の写真)龍飛崎から陸奥湾を望む。右手の道が国道399号線で、
外ヶ浜町の海岸線に沿うように走る

 津軽と言うと、私が先ず思いつくのは「りんご」しかし、実は日本有数の林産業の歴史の方が古い。筆頭格は「青森扁柏ひば」(ヒノキ科アスナロ属の針葉樹)で、江戸時代から植林・資源管理が進み、全国有数のひば産地として代々受け継がれてきたと言う。防湿・防腐・消臭・脱臭効果に優れ、構造材・造作材・建具に使われるが、成長スピードが遅く、近年は資源も減少して希少材になりつつあるようだ。ちなみに、りんごは、青森名産ではあるが、太宰治の「津軽」によれば、「明治初年にアメリカ人から種をもらって試植し、明治20年代にフランス人宣教師から剪定せんてい法を教わって俄然がぜん成績を挙げ、・・・青森名産として全国に知られるようになったのは大正時代に入ってからだ」と言う。

 実は、カメラに写したつもりだったのは、海沿いの国道のすぐ脇に建つ、ヒバの番屋や漁具の小屋、住宅や店屋らしい、古い建物の写真だったのだ。

「奥津軽いまべつ駅」は、JR北海道〜津軽海峡線は消え、津軽線は一部廃線

 今別からは、海沿いに半島を回る国道290号線から県道12号線に右折し、青森と三厩みんまやを結ぶ、JR津軽線を見に行った。実は、この線は、2022年8月の豪雨の影響で、途中の蟹田と終点の三厩の間が不通のままで、同区間の2027年春廃線が決まった。また、廃線かあ。

 立ち寄ったのは、「奥津軽いまべつ駅」で、青森県にありながら、JR北海道が営業する駅だ。駅の食堂で、昼飯を食べた。北海道新幹線の「はやぶさ」が1日7本停車する。列車を待つ人か、あるいはただ昼飯を食べに来た地元の人か、結構混んでいた。

 途中から廃線になった津軽線だが、五所川原から金木を通って中泊なかどまりを結ぶ津軽鉄道の終点中泊までをつなぐ、津軽半島周遊鉄道にする計画もあったそうだ。昔の国鉄には、壮大な計画がたくさんあった。

旅のお供に、太宰治の「津軽」


 さて、津軽と言うと外せないのが太宰治。太宰治と言うと、「走れメロス」・「人間失格」・「斜陽」などが有名だと思うが、私は、むしろ「津軽」・「惜別」・「右大臣実朝」が好きで、ベストスリーにしている。

津軽半島の旅のお供に、太宰治「津軽」(新潮文庫)

 昭和19年の春、生まれて初めて、自らの出身地である津軽半島を3週間かけて一周した旅行記である。上野初の急行列車で青森に着き、高校時代を過ごした青森を旅するところから始まる。その後友人と落ちあい、バスを使い、バスがない所は徒歩で、蟹田・外ヶ浜・三厩・竜飛と、訪問地の友人・知人の世話になりながら、北端の龍飛崎まで北上する旅の記録だ。

 「(この地方について詳しく知りたい人は)、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目がある。世人は仮にその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した・・・」と、やや謙遜して書いているが、実は、人と人との交流が中心ながら、津軽の地勢や歴史、自然や「津軽人」の人となりなど、カバーしている領域は広い。津軽を旅する人は、事前に、あるいは旅先の旅館の布団の中で読むと、思い出が深くなるはずだ。

 新幹線建設で沸いた津軽半島は、建設工事が終わると人口が大きく減り、「奥津軽いまべつ駅」を残して、津軽線も不通のまま部分廃線。下北半島は原発関連施設銀座。ヒバを始め、有数の林産資源を誇る青森県はどうなって行くのか、複雑な気持ちが残った。

 (了)



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