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『臨時』の人 〜 ③完結篇

 運転手は、一番長く、4年に及んだ。

左を空けて走る

 免許取立てなのに、社長付き運転手をやった。「君は随分左を空けて走るね?」と、書道教室チェーンの社長で70歳を超える老先生は、疑い深く聞いた。「大事なお車ですから」と答えたが、結構ヒヤヒヤで、仕事が終わるとぐったりした。

 お昼は先生行きつけの老舗鰻屋で一番高い鰻重を一緒に食べていたが、日給より高くつく昼飯はまずいと思ったのか、途中から千円渡されて「若いから好きなものをお食べ」に変更された。当時でも高かったあのクラスの鰻重は、今に至るも食べたことがない。週に何回かは、先ず築地に「囲っている」らしい若い女性宅に迎えに行くところから始まった。その負い目が鰻重=口止め料だったのかも知れない。

 ある日、週末の社員旅行運転手を仰せつかった。行きたくないので、左腕を骨折したことにして、包帯をぐるまきにして腕から吊って断りに行くと、「オートマチックだから、僕がギアを操作するから大丈夫」と軽くいなされた。房総半島の海岸の高級ホテルに向かう車中で、社長は、吉田拓郎やハワイアンのカセットテープを流してご機嫌だが、狭い道路とトンネルの続く道を、右手一本で運転するのは大変だった。

 豪勢な夕食の後、年上の女性社員群に連れ出されて、海辺で2次会となったが、「もう無理しなくていいのよ。包帯外せば」と言われた。とっくにバレていたのだ。

 人を運ぶのは辞めた。

夏は「氷入り梅茶漬け」に限るな

 社員がほとんど沖縄出身の運送会社には長くお世話になった。最初こそ「学生さん」と言われたが、その後「臨時の人」に昇格した。

 丸の内の会社丸ごと引っ越しや重量物、大手事務机の運送で実績を積んでいた。牛乳瓶の底のように分厚い近眼メガネをかけ、もう60を超える、小柄だが筋骨隆々のおじさん(おじいさん)がいて、100キロを超える金庫専門だった。ビルの窓を開けてクレーンで吊り出し、引っ越し先では逆の作業。今時のビルには開ける窓など無さそうだし、もうなくなってしまった仕事かもしれないが、プロだった。

 仕事が終わった人は会社に戻って昼食を取る慣習があった。夏の昼時、「夏はこれに限るな」と言って勧められたのが、大盛りのご飯に梅干しをいくつも載せ、氷を盛って、水か時々麦茶をかけて食べる「お茶漬け」だった。米と水分と塩分。必要食。最初は気が進まなかったが、食べてみると、素朴で美味しく、会社の昼にはこれを食べた。

 オフィス街を歩いていると、時々この会社のトラックを見かけた。まだ続いているのかな? おじいさん、氷入り梅茶漬け。

引っ越し先は郊外の一戸建て

 遠距離輸送にも挑戦した。静岡県にある届け先の老舗菓子問屋を回っていた頃は、倉庫の古参おじさんに、「入庫待ち」で意地悪された。目的地に着いても、「順番待ち」と称して、新参ドライバーはなかなか荷を降ろさせてくれない。次の目的地への到着がどんどん遅くなる。浜松辺りまで何か所も回っていたので、東京に戻ると深夜になってしまう。2024年問題でも、荷下ろしの待ち時間が問題視されているが、よく分かる。引っ越し便に変えてもらった。

 最初の仕事は覚えている。新宿のアパートに行くと、カップルの引っ越しと聞いていたが、二人とも男性のようだ(LGBTと言われる前の時代)。狭い2階の部屋に、立派だが重そうな、天井まで届く衣装ダンスが2本。これ運び出すのは大変だと心配していると、カップルの一人が腕まくりして手伝ってくれる。筋骨隆々の腕。あっという間に終了。「お兄さん、ご苦労様」とご祝儀をくれた。お客に心意気があった。

 都内の庭付き一戸建て。狭くて古い。3世代住宅のようで、トラックが着くと、お婆さんが出てきてニコニコしている。向かった先は、近県郊外の、広い庭付きの一戸建て。あたりには畑が残る。先ほどのお婆さん、いよいよご機嫌で、しきりに重箱に用意した昼ごはんを勧める。狭いところから広いところへの引っ越しは、逆のケースより随分楽で、あっという間に終わった。すると、お婆さん、ご祝儀袋と紐で結いた一升瓶2本を持って来て、「ご苦労さん」引っ越し運送にご祝儀はよくあるので、頂戴し、帰路中を見ると、5万円もあった。二人の助手に1万円ずつ渡すと、「いいんすかっ?」と大喜び。残りと日本酒は私がいただくことになった。こういう引っ越し(3世代引っ越しのこと、ご祝儀ではない)は、気持ちがよかった。

 2024年問題で、ドライバー不足が言われている。もう随分昔になるが、私が運転手をやっていた頃、運転の仕事は、きついけれど、当時としては、それなりの給与を得られた。その後、処遇はそれほど上がっていない。変わっていないということは、他の職種に比べると格段に低く抑えられていることになる。これでは、不足して当然だろう。

 (了)


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