【日曜美術館(3)】時代の顔をつくる~建築家 丹下健三が生きた道~
20世紀の日本人建築家を代表する「世界のタンゲ」こと丹下健三に焦点を当てた放送回で、僕は恥ずかしながら『広島平和記念資料館』くらいしか作品を見たことがなかったので、特に『資料館』を中心に感想を書きたい。
その『広島平和記念資料館』だが、丹下建築の最大の特徴ともいえる「軸線」が強く意識されているという。軸線とは、即ち「資料館」と「原爆死没者慰霊碑」そして「原爆ドーム」が直線上に並ぶよう設計されている、その線のことである。
僕個人の体験を話そう。大学の友人が広島市の出身だったのでよく遊びに行ったのだが、時々『資料館』にも立ち寄っていた。ある時、慰霊碑前で手を合わせていると、その広島の友人が声を掛けて言うには「ここから原爆ドームが見えるのに気付いた?日本人はあんまり気付かんのよね、むしろ外国人の方がちゃんと見とるんよ」。
これはあくまで彼の個人的な意見なので真偽のほどは定かではないが、そう思わざるを得ない出来事が過去にあったからこその発言だろう。その真意は分からないものの、日本人は平和ボケし過ぎて、逆に平和を希求する気持ちが鈍感になってしまっていることを暗に意味しているのだろうか。何かハッとさせられた瞬間だった。
余談だが、逆に彼に「これ、丹下健三の建築って知ってた?」と聞くと「丹下って名字の人ホンマにいたんじゃね。漫画の世界だけだと思っとった」と言われたことは、また別の話である。
さて、この「軸線」という考え方だが、1942年、日本建築学会によって開催されたコンペで、弱冠29歳の若き丹下が1等入選を果たしたデビュー作『大東亜建設忠霊神域計画』においても、早くも見られるという。
それは、東京の皇居から富士山に向かって「大東亜道路」と「大東亜鉄道」を走らせ、富士山麓一帯を忠霊神域とする計画だったそうだ。勿論これは案のみで実現していないが「皇居」と「富士山」という2つの聖域を結ぶ軸線が、壮大な神域を創出する役割を付与されていることからも分かるように、丹下の「軸線」が単なる建築・都市計画の枠に留まらず、ある種の思想的な試みであったことは確かだろう。
ちなみに、当時、大学院生だった丹下は、独り図書館に籠もって西洋の伝統的な「広場」の研究をしていたそうで、それが例えば『広島平和記念資料館』や後年の『東京都庁舎』前の都民広場にも生かされているそうだ。
逆に僕は、丹下の初期作品の解説を聞いて、どちらかというと日本の「結界」のようなイメージを想起した。結界とは、例えば古来より日本のムラ社会では、村外れに「墓場」を築いてきた歴史がある。これには、死の穢れを村の中に持ち込みたくないという意図もあったが、それよりもむしろご先祖様の霊の力を借りて、邪悪な存在が村に侵入することを防ぐ意味合いの方が強かったそうだ。全く同じではないが、ともすれば負のイメージもある人知を超えた何者かの力を利用する、そういう意味の「結界」である。
翻って「皇居」や「富士山」も古くから霊場だったわけで、それらの霊威を軸線で繋ぐことで「神域」にまで拡大させたのが『大東亜建設忠霊神域計画』だとしたら、丹下は『広島平和記念資料館』を構想する際、建設予定地の目と鼻の先にある「原爆ドーム」もとい「産業奨励館」に、同様の価値を見出したのではなかろうか。
もう少し噛み砕いて話すと、当時の広島では原爆によって半壊した「産業奨励館」は、戦争の忌まわしい記憶を呼び醒ます負の遺産として、取り壊し案も盛んに叫ばれていたそうだ。そこに丹下が「軸線」の思想に基づく資料館を建設したことで、もはや廃墟に過ぎなかった産業奨励館に霊的な(という表現が正しいかはさておき)価値を付加した、そしてそれによって産業奨励館は名実ともに「原爆ドーム」として再出発することが出来たのではないか、ということである。
ここに「霊的な」という表現をしたのは、先の「結界」の概念を多少意識したのと同時に、単に「平和のシンボル」とするだけでは、少々言葉足らずではないかと危惧したためである。実際、広島では原爆によって約14万人もの市民が犠牲となった。それも通常の死に方ではなく、爆心地にいた人は原爆の熱線によって一瞬にして炭化してしまったほど酷い最期を遂げたわけである。
そういう場所はやはり当事者や遺族からすると見るのも辛いものだし、下手をすれば平和どころか「死のシンボル」として忌避されたとしても可笑しくなかったと思う。であるにも関わらず、丹下は軸線を引くことによって「負のエネルギー」を逆利用してみせた。つまり、死者を鎮魂し、二度と戦争は繰り返さない、繰り返させないことを誓う祈りの場へと変質させたのだ。
これは、コンペで2等、3等に入選した建築家達の案にはなかったものだ。また、当時最年少でコンペに臨んだ建築家がインタビューに答えて当時を振り返り、丹下の斬新な発想力を賞嘆していたのも印象的であった。