変わらず移ろう日々:「PERFECT DAYS」感想
映画「PERFECT DAYS」の感想です。
ネタバレになってしまうところもありますので、ご了承ください。
仕事終わりに見るといい映画です。
皆さんは日々どんな思いで生活していますか?
私も含め、もっと素敵な日々が毎日続いていけばいいのにと思う。もっと自分にだけ都合のいいような日々になればいいと思う。
幸せの感じ方が分からなくなってしまうことがあります。
他人を僻んでも、何も生まれない。
他人から見たらつまらない、そんな仕事と思われるかもしれない。陽のあたる仕事ではない。
でもそんな仕事にひたすらに向き合っている平山の姿を、誰しもが素敵だと思う。
いつもの通り、朝はごみ掃除の音で起き、草花に水をやり、コーヒーを買って車に乗る。こだわって仕事をこなしたら、銭湯に行ってご飯を食べて帰る。夜は本を読んで眠くなったら寝る。
そこに誰も日々しないことはない。でもそんな彼を見ていると自然と幸せそうだと感じる。
彼の生きる姿を陰で描く。これがこの作品のテーマだと思います。陰と陽があり、彼の夢では全てが陰で構成される。彼が陽なのでしょうか。それとも彼が陰なのでしょうか。解釈は見ている一人一人に委ねられていると思います。
彼の仕事も、その暮らしぶりも人から言われてしまえば、裏側の人。汚れ仕事であり、独り身で、汚いアパートに住んで、十分な家電もない。陰でありながら、その生活は陽そのもの。引きこもってアニメを見ることぐらいしかすることない人と比べてみてください。
彼は陰であろうとするのです。陰でありながら自然と陽の生き方をしている。木漏れ日のように、影で覆われるからこそ、陽はよりきれいに輝く。
ピンホールカメラは木漏れ日のニュアンスと同じである。それが正確にどんな意図なのかは探りきれないが、その風情は間違いなく、本能的に、彼の生きざまと同じように感じられる。一瞬、偶然ピントがあって実像が生まれる。その時時によって現れる形は異なる。でも、その色や形は何物にも変えがたいありがたみがある。陰でしか捉えられなくとも、そこに存在し、それは陽と相まって美しくもなる。
そんな彼でも周りの人の感情を左右することはできない。色んな人が色んな思惑で生きている。それに対し彼は常に誠心誠意、答えようとする。その時正しいと思ったことをする。そして、その結果いつもの日々が少しずつ変わって、元通りになった風をした形のまま、日々が続いていく。彼はそんな日々を体一杯受け止める。さすがに長時間労働は体に堪えるけれども、そんな日もある。
だから、「完全な日」というのは存在しない。絶えず移ろう日々の中で「完璧な日々」を作り上げていくことは出来る。存在する。それを見せつけられたのだ。そして完璧とは、極大的な感情の高まりではなく、何でもない日々が続くこと。それを維持すること。それに他ならない。幸せと本人が感じていなくとも、それが幸せなのだということはとてもよくあることなのだ。
平山は特別であった存在かもしれない。が、少なくとも今は特別な存在ではない。陰で生きることは、汚れ仕事をしていることと同義では全くない。私たち一人一人も実は陰で生きている。そんな人の方が、小説や映画に出てくる登場人物みたいな人たちよりもよっぽど多い。私たちが日々思っている、もっと素敵な日々が、という願望は実は贅沢な思いなのかもしれないと気づかされる。いや、もしかすると幸せのベクトルが違うのかもしれない。極大的な幸せは刹那的で、日々を噛みしめることが、より重要なのかもしれない。
平山にとって陰が重なって濃くならないなんてことはあり得ない。「名もなき人びと」がそこにいるという、陰の存在は1+1=2なのであり、1が0になってしまうなんてことは受け入れられないのである。
それは間違いなく見ている私たちのことを指している。私たち一人一人も1であって0ではない。陰であっても「完璧な日々」を送る権利があるのだ。