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[疲労社会]を京都にいる間に読んだので③~自分を求めると消費させられる~

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さて、京都読書[疲労社会]の第三弾。まだまだ全然書くことあるから恐ろしいよなぁ。まぁでも、結局今まで私が言ってきたことをそのままなぞってるだけみたいなところが本当に強いんで、こうやってまとめると伝わりやすいのかーって感じで読んでた感じですね。なんというか、新しい視点!って感じではそこまでなかったのが実感かなぁ。

あーそうそう、書いててちょっと思ったんだけど、去年の年末辺りに國分先生の[暇と退屈の倫理学]を読んだんだけど、なんというか感覚としては結構補完的な存在と言えるのかもしれないなぁ。國分先生は、暇と退屈という状態から社会を見渡してみると、暇と退屈を人間が嫌うから「仕事」や「やるべきこと」・「人生を充実させること」に人間の意識が向いてしまう。この人間の意識をうまく絡めとるのが資本主義みたいな説明の仕方をしていて。一方で、[疲労社会]では、資本主義社会においては、そのシステムを拡張・発展しようとするその源泉として人間の活動や意識を消費していると説いている。その結果として、「仕事をしていないこと」だけでなく「現状維持をしている」ことすらも良いことではないというプレッシャーを与えることで、人間の活動時間のほぼすべてを仕事に向かわせようとしているとした。どちらも、結果的に資本主義社会が消費させる側、人間が消費させられる側としての社会構造を暴いている、という意味で同じような結論に至る。

これらからおそらく現代人のまさに現代病とでもいうべき、鬱や睡眠障害、適応障害、パニック障害などは、この社会が人間としての活動を定義し、そして個々人が社会に駆り立てられていることに耐えられなくなった時に発症すると捉えるほうが良いだろうと思う。本来であれば、人間の幸せを拡張するための社会システムとしての資本主義という仕組みであったが、この仕組みはとても巧みなので、ほとんどの人間がこの社会システムを維持し発展していくための道具として絡めとられてしまったと。結果として、人間はそれぞれの生活やそれぞれのやりたいことなどがあったはずなのに、それを満たすことが出来ず、この満たすことが出来ないために病んでいくということになる。

がんばって仕事するけど

思えば、そもそもとして、私たちの個性とはどういうものなのだろうか。個性に対して多様性という言葉が最近踊っているが、ここでいうところの多様性は、本当に個性の多様性を担保しているのだろうか。内面や信条の自由は、自由権の中でもとりわけ重要とされているがどうなのだろうか。私たちはこの内面や信条についての自由を選択できる立場にあるのだろうか。いまいちよくわからない。

現在、100年前50年前に比べて、スポーツ選手の運動能力の伸びは著しい。目を見張るものがある。その上で、栄養に関する研究や睡眠に関する研究について多くの進展が見られた。結果として、例えばサッカー選手のクリスティアーノ・ロナウドや野球選手の大谷翔平などの食事が紹介されることがある。少し調べてもらえればわかると思うが、クレイジーの一言だ。また、現代人はたんぱく質が足りないとされ、たんぱく質を多く摂取する食事を意識すべきとしている。これを行うとより活動的に行動できるのだという。なる程と思うが、果たしてなぜより活動的にならなければならないのだろうか。活動的に行動することは、人生の豊かさにつながるのだろうか。

勤勉の象徴であるアリやハチも怠ける個体は結構いるんよな

結局1日は24時間しかない。そのうち6~8時間睡眠をするとして残りは16~18時間になる。通勤時間等を含めると、だいたい11時間~12時間は仕事をしている。気が付けばもう残っている時間は5時間程度。ここにご飯を食べる時間やリフレッシュする時間を差し込めば、初めてフリーになれると感じる時間は2時間程度だ。

そして、恐ろしいことに、この2時間程度の時間の中に、現代は出来る限り運動と勉強の時間をつぎ込もうとする。これは、健康とスキルアップのためだという。健康とは何かと言えば、十全に仕事をする体力作りだ。スキルアップは何かといえばよりうまく仕事をするためだ。睡眠だって、なぜ6~8時間とらないといけないかと言えば明日仕事があるからだ。と考えると、先ほどのたんぱく質の食事だって仕事をうまくやるためだし、リフレッシュが必要なのだって明日仕事があるからだ。とすると、気が付くと現代人はその24時間すべての時間を仕事と仕事の準備に使っている。これが多様性の時代と言われている現代人の生活である。なんと画一的なモノだろうか。

ストレッチすら仕事だ!

さらに、やりたい仕事をしよう・得意な仕事をしようと言われる。これは、人間には多種多様な能力バランスゲージが存在するからであろう。まさにゲームの能力値のようなものだ。得意なこと・やりたいことを伸ばしていくほうが、他人よりも優れた結果を出しやすく、優れた結果は優れた報酬になりやすいと言われている。これを逆説的な言い方をしてしまえば、「やりたいと得意を混ぜ合わせて、自分の個性を仕事にフィットさせよう」だ。結局、私たちの個性も私たちの時間も仕事に合わせることを求められる。だから、私たちの夢や目標は職業となるのだ。

どんな仕事であろうとも仕事に消費させられている?

私たちは多種多様な夢や目標を持っているとされるが、一方でそれは仕事でしかないという意味で、非常に画一的な"多様性"と言えるだろう。こうして、私たちは24時間すべてを仕事に捧げ仕事に消費させられた結果、その消費に耐えられなくなると鬱や適応障害、燃え尽き症候群などを発することになる。そういう意味で、鬱に苦しむという存在が、最も人間的といえるという皮肉な世界が現出しているのかもしれない。

人生という有限な時間の中で私たちは

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