2024年の年の瀬にお酒を飲みながら。
2024年もそろそろ終わりということで、早くもなく遅くもなく、なんか気が付いたら1年が過ぎていながらも。お風呂で今年なにしたっけな?とか写真の数を数えたりとか、或いはこのnoteの記事を見返してみたりして、あーちゃんと1年間生きてきたんだなぁうんうんと感じて。とりあえず今梅酒をちびちびとって感じか。ちなみに、つまみはなしだけど、気になったらリプトンのレモンティとチョコレートを入れる予定。
1年間あっという間だったわーというわけでもなかったなぁと思うというか、成長を感じられる1年でした!みたいな話でもなく。ひたすらにひたすらな日常があって。意外と平穏に満ちつつ、自分がやりたいことも少し取り入れることも出来たような。まぁもう少し本読めたらよかったなと思いつつみたいな、本当に普通に1年が過ぎておりました。全体的にはまぁマイナスはあんまりないな。気が付いたら歳をひとつとっていたみたいなそういうぐらいの話であってだね。
私は成長主義を手放している。成果主義も手放している。だから、過ぎ去ってしまった1年を考えて、なんか後悔することはあんまりない。もっとこうしたらよかったのにみたいなところからはもうかなり遠いところに来たなと思っている。そしてそれでよかったなと思っている。もうそういう感覚にとらわれるのは本当に無益だと思っていて。まぁ人間、行けるところまで自分がやりたいようにしかならんのよみたいなそういう話。
まぁこういう場所なので、いったんはnoteの話をしましょうかね。思いついたら書いていきましょ。みたいなそういう感じで、noteを綴りだして。なんだかんだで、この記事が実は232記事目なんだよね。んーーそうかー6月ぐらいには250記事は書けるでしょ!って思ってたけど、やっぱり8月の失速が相当きつかったなぁと。実際、このnote全体のアクセス数も7月の終わりからガクッと減ってるんだよね。今んところ、だいたい1.9万アクセスってなってるんだけど、最初の4か月でだいたい9000ぐらい稼いでるのね。まぁこれも、最初の初心者ブーストみたいなのが3か月ぐらいかかってたんだろうけども。おそらく、note全体としても初心者がタグとか検索とかで上がりやすくなってるとは思うからね。ということは、逆説的には残りの8か月で1万ぐらい稼いでることになるから、最初の4か月の勢いの半分ぐらいの数値が推移としてあったみたいな。まぁ1か月で800~1000ぐらいのアクセスということで、そんなもんよなーみたいなそういうお気持ちだよね。なんもないところだけど、ちょこちょこ読んでもらってるなぁと思うわけで。ありがとうございます。どんな記事でも最低30ぐらいのアクセスはあるわけで、やっぱりこういう、文章を読むっていうことが出来る人たちの中でnoteってのはちゃんと地位を確立してんだなって心より思います。すごいわ。
まぁ、とりあえず、約250記事、有料になってるから別に全部読めるわけではないんだけど、それでもちょっと記事の数が多すぎると思うので、わかりやすいように交通整理するようなものを作りたいとは思っています。昔のHPでいうところのサイトマップだよね。とにかくこれがないといまいち何書いているかよくわからない。何書いているかよくわからないから、私が全体として何を書いているのかがよくわからない。私は基本的にアーティスト気質のあるタイプではあるのですが、一芸特化型ではなく複合型という性質があると自分では思っていて。noteで書いていることって、自分が考えていることの一部の中で、さらにある程度のボリュームで言語化できた部分みたいな、スカスカなところみたいな感じでね。私の人となり?とか私の魅力?みたいなものって、一芸特化型の人たちよりもはるかに伝わりにくいと思っている。だから、このnoteだけを読んでいる人と、実際会ったり話したりしている人とでは、私のイメージって全然違うんだろうなと。Twitterとかでフォロワー1000人とかいたときも、会ってみたら全然印象違うじゃないですか!って言われまくってたからね。まぁこれも、相手が私に合わせてくれただけなんじゃないか?って思うこともあるんだけどね。別に誰彼かまわず衝突するタイプじゃないんだって。そもそもコンフリクトみたいなやつって発生したら面倒じゃないですか。
そういえば、意外と他人って、その人が如何したら喜んでくれるかみたいなことを考えてくれる人って多いんだろうなって思うことが結構ありますね。あと、異性はともかく、同性の場合、この人意外と自分のこと好いてくれてそうだなー?みたいな感覚があるときは、相当好かれてるんだよなってのは、ここ最近ようやく実感を以て知りました。どうもありがとうございます。なんというか、こういう人間関係の構築とかちゃんとやってる人たちって本当にすごいなって思うんだよね。私は本当に小学校・中学校の時代から人間関係を作るのが下手すぎるからなぁ。好意の受け取り方が下手すぎるんだよ。いろんな意味で小さな不義理?みたいなものをいっぱいやってきてんだろなって本当に思いますね。日々日々反省の人生です、みたいなところはどこまで行っても否定できないんだよなぁ。
つか、そもそも私は何でこんなnoteの片隅でこんなわけのわからないことを書いているかというと、簡単に言うと「ミドルエイジクライシスが怖いから」なんですね。なんかいきなりカタカナ出てきた。まぁ出てきたんだけど、ちょっと前に、「未婚男女40歳~45歳で狂う」みたいな話がTwitter界隈でなんか盛り上がってましたけども、あれに近い形。でも、もう少しアイデンティティクライシスに近い話。そっちが言っていたのはソーシャルコミュニケーションの話が主だったけど、私はこう自意識が崩れ出すみたいなそういう話なんだよね。そもそも精神発達論みたいな、個々人の成長論みたいなそういう話の中で、中年期ってのがあって。そこをうまくハンドルしないと老年期うまく行かないよというか、老年期に体は入るけど心がうまく入っていかないんだみたいなそういう話が、発達心理的なところから存在するわけで。私が興味を持っているのはここなんだよね。
そう、なんというか、ミドルエイジ・アイデンティティ・クライシスを防ぐというか、より柔軟で伸縮性があって豊かな中年・老年を過ごすために私たちはどんな心構えが必要なんだろう?みたいなそういう話をずっとしてきているつもりなんだよね。んで、そのキーワードになっているのが、結局「他者としての社会とどうコミュニケーションをとるべきなのか?」って話になって。なんかそうするとTwitter界隈のソーシャルコミュニケーションの問題と一緒やんけってなっちゃうんだけど、もう少し心構えというか「どう行動したら狂わないか」というよりも、「どう自分を受け入れたら狂わないか」みたいなところだし、もっと言うと「どうやって社会や他人を理解することで、自分の存在を赦せるか」みたいなそういうところを書いているつもりなんよね。
結局のところ、私たちは、他者と自己という二項対立的な視点からは逃れられない。その上で、その二項対立の果てに私たちの幸せってあるんだろうか?みたいなそういう話なんだよね。んで、今までの世界の認識としてはそこに幸せってないっぽくない?みたいな。だから、結局、子どもと家族がいないと幸せになれないみたいなそういう話になってると思っていて。実際問題、私としても子どもはともかく、少なくとも恋愛というか異性の一緒に人生を過ごしてくれる相手がいるとすごく楽だと思うのねとは思っているんだけど。まぁとはいえだよ。今の世界に住んでいる人たちは、ひとりひとりの脳が処理している情報量だけで言ったら、100年前の人たちと比べてもう50倍ぐらい長く生きているのと同じ、みたいな話もあってさ。としたら、なんの自覚もなく、家族や子どもがいれば幸せで満足で笑って死んで行けるなんてことはないような気がしているんだよね。であれば、死に支度とまでは言いたくはないけど、こういう心構えってどうしたらいいのかなぁって思っているってことなんよ。
こういう意識でnoteは書いていて。だから、一種の社会心理的なテストの場だったりもするんよ。こう考えたらもう少し社会に他人に、そして何よりも自分に優しくなれるんじゃないのかなぁみたいなそういう話。恋愛でも仕事でもお金でも家族でも何でもそう。現代という世界に生きていて、現代という場で教育を受けている私たちはどこまで行っても「自己と自我」から抜け出せないわけで。本当はないというか、近世以前にはそういう考え方で社会を解釈してはいなかったという、現存在という幻の上に、アイデンティティってのを構築しちゃった私たちはね。結局のところ、どこまで行ってもこの「自己と自我」と戦わないといけないのよ。その助けとなるのが「他者と社会の理解」に他ならないんだからさってそういう話。
まぁグダグダと書いていたけども、どこに行っても私はグダグダとモノを書いていくんだろうなって思うわけですよ。