江戸時代から続く港町の伝統。大漁旗職人 菊田栄穂氏。
ただ生きている限り、体が動くかぎり作り続けること。それだけです。
江戸時代より受け継がれた大漁旗六代目の技術
気仙沼の大漁旗
東北で宮城県と岩手県の県境に位置する港町、気仙沼。日本屈指の漁港の一つとも言われるここ気仙沼でも多くの大漁旗を見かける。大漁旗とは、陸にいる家族や関係者に大漁を伝えるために、漁船の船首や船尾に掲げられている旗。また旗や幟は神霊を招き寄せるために掲げるFうで、大漁を喜ぶという意味もあると言われているそう。古くは11世紀頃より始まったとされているほど、その歴史は非常に古く、間違いなく日本の伝統文化のひとつといってよいと思う。
大漁旗の文化は気仙沼でも江戸時代より受け継がれ、今もなおその文化が市民にも色濃く残っているものである。進水式の際だけではなく、漁船の出漁の時、乗組員の家族や友人、船主、関係者が岸壁から見送る出船おくりの際には、大漁旗をよく見かけることができ、この港町のシンボルのひとつといっても過言ではない。
文化を継承し続ける港町気仙沼の残された最後の職人
しかし、江戸時代より続いている大漁旗の文化を支え作り続けている方はこの街に1人。という話を聞きつけ、今回はその方のもとを訪れることにした。
菊田染工場の菊田栄穂氏。菊田氏の職場はご自宅と一体化された職場で何かものいわずに大切なものをひっそりと守ってきた場所。そんな場所に思えた。ご本人の希望もあり、今回はご本人の写真の掲載はないことをご了承いただきたい。
最後の一人になったきっかけはリーマンショック
私:今回はよろしくお願いいたします。さっそくですが、この街でお一人で大漁旗づくりをされていると伺いました。
菊田氏:そうですね。今気仙沼では私一人になりましたね。
このあたりだとあとは石巻と大船渡に少し作られている方がいらっしゃるはずです。
私:そんなに減っているのですね、職人の方々が。この仕事を始めたきっかけとは?
菊田氏:家業だった。もう6代前から代々菊田家は大漁旗づくりを仕事にしてきました。江戸時代に創業したそうです。
私:じゃあもう初めから職人を志してたんですね?
菊田氏:いや。大学時代は東京で建築の勉強をしてました。建築の仕事がしたかったんです。
ただ当時はオイルショックの頃でなかなか就職先が少なく。それで帰ってきて家業を継ぎました。
私:なるほど。その時代は何人くらい職人の方はいらっしゃたんですか?
菊田氏:当時は私を含め6人で分業性でやってました。ただ、みんな親族だけですが。私も技術は祖父に教わりながら。父も叔父も、弟も。みんなで作ってました。
私:なるほど。それで少しずつ人数が減っていったんですね。
菊田氏:そう。結構時代というか景気に左右されるんです。この仕事は。オイルショックであったり、バブル崩壊であったり、景気に関わる大きなことがあると一気に仕事が減る。造船をしなくなったり、造船してもコスト抑えるために大漁旗は印刷になったりという感じで。少しずつ数が減っていきました。
なかなか安定しない仕事で。
菊田氏:最後はリーマンショック。本当に仕事がなくなって。最後は私と弟が残ってたんですが、2人では食べていけなくなり。弟は土木関係に仕事を変えてしまいました。
私:で、お一人になられたんですね?
菊田氏:いや私も辞めようかと思ってました。
もう、どんどん仕事減ってましたし。潮時かな?と。それだけその時は仕事がなかった。
えらく迷ってたんだが、続けてほしいという声も周りからあったし。まあ。なんかあっても、もう夫婦2人だけだから。なんとかなっかな?と。続けた感じです。
菊田氏はそういうと苦笑いをし、そして深く頷いた。
その表情は確かに当時の菊田氏には何かしら確かな覚悟があった。そう感じさせるものだった。
少し事務所を見渡すと過去に作った作品が
フレームにいれて飾られている。
色の再現性、技術はさすがに長年積み重ねたものだな。と思う。
長年積み重ねた技
菊田氏の大漁旗づくり
今の時期は大漁旗の依頼が少ない時期で今日は作業はしないということで作業風景は見られなかったが菊田氏は実際に作った大漁旗と暖簾をいくつか見せてくれた。
菊田氏:これが大漁旗です。もっとこの四倍くらいのサイズのものもあります。大きな船になると大漁旗も大きくなるから。
私:おー。色の再現性が凄いですね
ここまで再現できると思ってなかったです。
影のつき方も凄いリアル。
菊田氏:どんな色でも再現できる。まあ乾きや滲みの具合で色をつけていくので、コンピューターのようにはならないけど、その滲み具合は経験から微妙に色が変化する部分も調整できる。
私:鷹の色の細かい表現なんかメチャクチャ凄い。ここまで鮮やかな色をだせるとは思ってなかったです。鷹が神々しく見えますね。
菊田氏:縁起物だから。大漁旗は。富士と鷹となすび。みんな力強くないといけない。
なんでなすびが縁起物なのかはいまだによくわかんねーけどw
私:w。そう言われれば確かにw
菊田氏の暖かい人間味と受け継がれてきた大漁旗のデザインへの菊田氏の表現すべきこだわりを感じるひと幕だった。
1人で大漁旗を作り続けること
私:1人で作るのは大変では?
菊田氏:大変。でも1人で良かったと思っている。
菊田氏の表情が変わった。
そのまま菊田氏は話を続けた。
菊田氏:1人で作るようになってからは言い訳できなくなった。大漁旗づくりにきちんと向き合うようになった。それまでは誰が悪いか?といってお互い言い合ってた。だけど今は全部自分。言い訳も誰かのせいにもできない。全て自分の責任。その責任を背負ったことが本当に良かったな。大漁旗をつくることを真剣に考えるようになった。それが本当に良かった。
菊田氏の表情に一寸の迷いもなかった。
意外だった。1人になったことを憂うことはあるかと思ったが、菊田氏にとっては1人になかったことが大漁旗と向き合うために必要だったのだ。これが先ほど菊田氏から感じた覚悟か。
後継者不在の伝統文化
私:ちなみに今は後継者もいない?
菊田氏:いない。
私:この街からはもう作り手がいなくなるんですよね?
菊田氏:俺が辞めたら最後だな。後は石巻とか陸前高田があるくらいだな。
私:後継者とるきもない?
菊田氏:給料が払えないからな。
私:・・・
私:そんな感じなんですね。
菊田氏:ちょっと無理だな。考えたりはするけどな。これをどうすればよいかは分からないからな。
菊田氏:今が66歳。俺にできるのは生きてる限り大漁旗を作り続ける。体が動く限り。それだけだ。
菊田氏は笑って最後の言葉を伝えてくれた。
生きてる限り続ける。
重かった。
ただただ重かった。
1850年から続いたこの街の文化を終わらせること。この街のほとんどの人が知らないこの現実。親身に受け止めて背負っている1人の職人はたった一人でその文化を静かに守ってきた男。
何か僕にできることはあるのだろうか。目立たなくても、1人で静かに伝統を守り続けてきた菊田氏のように。僕にできること。
きっとまた菊田氏に僕は会いにくることになる。そう思いながら、僕は菊田氏にお礼を伝えて今日を終えた。