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コンプレックス 29
■コンプレックス 29
札幌の冬を見ないまま、涼しい夏だけを過ごして福岡に戻った。
子供達の喜びようは大変なものだった。
福岡に戻ってから、
地中海クラブのGMの話や、地方のホテルのGMの話などいくつかあったが、その話もどれもがうまく進まなかった。
ボクの出身地であり、ホテルマンのスタートを切った新潟の先輩にも声を掛けたみた。
随分久しぶりに連絡したわけであるが、先輩は
「○SGという非常に大きな専門学校のホテル科が、ホテル実務経験者の講師を急募してるぞ!お前さんはホテルスクールの講師もやってたし、いい話だと思うけど」
との事であった。
早速問い合わせをして履歴書を送った。
善は急げ!である。
前記した重田さんが、
ボクのホテルマンのスタートを切った
「ホテルイタリア軒」の常務を知っていて、
彼ならば、色々つながりがあるかも知れない・・・
ちょっと声を掛けてみてやるよ!
と言ってくれた。
イタリア軒の常務から電話をいただき、先日の先輩からの話と
同じ話を教えてくれた。
実はその話はつい先日先輩から聞いて、早速応募しました。と言うと、常務は大層驚かれ、
その学校の理事長を知っているので私の方からもよく頼んでおきます。
という言葉をいただいた。
何か良い方向に動き出したな・・・
ほどなくして○SGから面接の連絡があった。
新潟の実家では、母が一人で暮らしている。
母に事情を話し、面接の日は実家に泊まる事にした。
面接の感触も悪く無かった。
母にも「もし決まったら、しばらくは私だけ居候させてくれ!」と頼んだ。
そして福岡に戻り、連絡を待った。
しかし待てど暮らせど返事が無い・・・
あ~ぁ、ダメだったのかなぁ?って思っていた時に書類が届いた。
結果は「残念ながら・・・」という内容であった。
「???何故だ・・・」
ボクは、冷静になって、不採用の理由を分析してみた。
先方は実務経験者を希望しているものの、
私の場合は、イタリア軒の常務の推薦や、ホテル西洋銀座の元GMの推薦があるなど、業界に精通しすぎている。
また、インストラクションに関しても十分な経験と知識があり、自信を持っている。
専門学校の既存講師は、こんな私が入ってきたら
私に対して気軽に色々言いにくいし、
自分達の経験の無さを馬鹿にされるのではないか・・・
等々の事を考え、別に経験は浅くても我々が色々言いやすくて、使いやすい人を採用しようや!
という感じだったのではないか・・・
日本的な、自分を「守る」考え方である。
まっ、あくまでもこれは私の推論であり。本当の真相は分からないが・・・
いずれにしても、「これで決まり!」と思っていた話しがダメになったわけである。ショックは小さくなかった。
そして、ボクが新潟に戻ってくる事を誰よりも楽しみにしていた母親の気持ちを考えるといたたまれないものがあった。
そのショックから未だ立ち直れないでいる或る日
西鉄エージェンシーのS石部長さんから電話をもらった。
S石さんには時々メールで近況を報告しており、今回の新潟の件の結果も伝えていたのだ。
S石さんは、
「メール見ました。
私も笹川さんはその専門学校に決まると思ってたんで驚きました。こういう事態になったので、どうかなって・・・思って電話したのですが、久山に温泉付きのホテルでLサイドホテル久山というホテルがあります。
このホテルの開業の時、うちが仕事をもらった関係で支配人の事を知ってます。
私も知ってますが、K崎という担当が更によく知っているので、
笹川さんの事を、K崎からその支配人に聞いてもらったんです。
簡単に今までの経歴も伝えて・・。
そしたら先方は会ってもいいような感触だったらしいんです。
笹川さんの経歴や能力から考えると、はたしていい話しなのか?
という気もしますが、
とりあえず仕事をしながら世の中の流れを見て、
チャンスを待つというのも必要なのではって思いまして・・」
との事だった。
ありがたいお話であった。
早速Lサイド久山の支配人に電話してみた。
「ハイハイ、K崎さんからお話し聞いてますよ!」と言われ、
お会いする約束をした。
私は、S石さんに面接してもらう事になった件を伝え、
レイクサイド久山の情報を色々教えてもらった。
支配人との面接には、人事の方も同席した。
支配人は、料飲を立て直したいという思いがあるので、
その部門でよければ話しを進めるが、ギャラは安いですよ!
との事であった。
とりあえず「よろしくお願いします」と帰ってきた。
その後Lサイドから連絡が有り、役員面接に来て下さいとの事。
役員面接は、社長、副社長、他取締役2名の合計4名での面接であった。
色々質問をされた後、取りあえず一ヶ月ほどの期間を切って、
その段階で正式契約するかどうか判断したいと言われた。
なんだか随分慎重だなぁ!
まぁ、こんな時代だから仕方ないのかなぁ・・・
それにしても、今までに無かったスタイルだ!
と、少々驚かされた。
そして4月の20日位から働き始めたと記憶している。
仮契約にもかかわらずタイトルは「料飲課長」であった。
恐ろしく人材が不足していて、課長であっても何でもやらなくてはならず、一番の戦力みたいな感じであった。
働き始めて色々な事が分かった。
Lサイドのレストランには欠如しているものが多く、
それを言葉にすると、こんな感じである。
人材不足、元気不足、やる気不足、厳しさ不足、技術不足、知識不足、統一感不足、
とにかく不足してものが多く、
世の中に「不足ランキング」というものがあれば、優勝出来たかも知れない。
こりゃ手直しするのも大変だなぁと思った。
しかし、それにプラスして開業からいた中堅のスタッフが辞める事を聞いた。
また、今までレストランの責任者をしていた人も辞めると・・・。
二人が辞める話しは、私が来る前に決まっており、それで採用になった部分も大きいようである。
私は少しづつ自分のスタイルにやり方を変えていった。
すると前からいた学生バイトの連中が、
「なんだかややこしくなってきたな!」とでも思ったのか、
バンバン辞めていった。
元々人が少ないのにどんどん辞められて非常に厳しかったが、
踏ん張るしかなかった。
その頃は毎日朝8時から、夜は早くて10時、時には12時を過ぎる事もあり、
みるみる体重が落ちた。
よくもったものだと思う。
一ヶ月ほど経った時に社長から呼ばれた。
料飲部長として契約して欲しいと言われたのである。
ギャラは、高くは無かったが、向うとしては精一杯の金額との事。
確かに皆ギャラが信じられない位安いので、私のギャラが支配人の次なのかも知れない。
ある日仕事を終えて自宅に帰り食事をしていた時に電話が鳴った。
「えっ!本当ですか!」・・・・・電話を切ったボクは女房に
「井沢ちゃんが亡くなった。くも膜下出血だった。」と告げるのが精一杯であった。
「えっ!」と、女房は絶句した。
突然の電話を受け、涙を流している両親を見て子どもたちは
「どうしたの?」と恐る恐る聞いてきた。
「パパのね、一番大切なお友だちが亡くなってしまったのよ!」
女房が説明してくれた。
彼の実家は北海道砂川だった。
砂川で行われた告別式は、彼の事務所の仲間たちがキーボードを
演奏し、花に囲まれたものであった。
「井沢ちゃん、もっともっと一緒に遊び、一緒に呑み、そして一緒に仕事をしたかった…寂しいよ!」
辛い別れであった。
***
※コンプレックス・シリーズは一旦終り、続コンプレックスで連載します!
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