チ。—地球の運動についてー、を読了して。〈vol.2〉

次に作中、最も自分が重要だと感じたメッセージを引用する。

「死の責任は神じゃなくて人が引き受ける。だからそこにはきっと罪と救いじゃなく・・・・・・反省と自立がある。そうやって苦しみを味わった知性は、いずれ十分迷うことのできる知性になる。」

完全無欠という性質を持つ神がどうして世界をこんな風にしたのかという問いに、あらゆる宗教は、人の不完全性と罪との癒着によって矛盾を回避してきた。
つまるところ、世界をこんな風にしたのは人類であり、神は(あらゆる)事情をもって手を出さない。手を出すとすればこんな人(あるいは場合)である。と言い説くわけだ。

神と人との部分的分離は、自然現象的でもあるため、当然の帰結であるといえる。
しかし、著者は部分的分離の要素を加味したうえで、人に(知性的に)善く生きるよう勧めている。

罪と救いというテーマはキリスト教のものだが、「反省と自立」は、「すべての生きる人々の精神的テーマ」であるといえる。
当然、”善く”生きんとする人々のテーマだが。

魂的には相対性を同居させない善性というものは不変であるため、成熟というベクトルの終盤では必ず”善性”という要素を取り扱う。

重要なのは著者はそれを成熟した魂ではなく成熟した人としての知性と結び付けて考えた点である。

自分が本当に好きなのは、迷うの前に”十分に”とある点である。迷うだけなら知性無き者にもできるのだ。(知性無き者とは、ただ迷うだけの人のことを指している)

十分に迷う、ということはその物事の全体像を眺めていなければならない。物事の全体像を視野に収めていなくとも、自分が眺めて得ている視野が果たして物事の全体像であるのか、という問いを最初に扱う。これが十分に迷う、という意味であると考えられる。

迷うという似通った行動の中にも
全く違う別の性質、段階があることを、”十分”という言葉が指し示している。
この一単語が文全体を引き締め、非常に鮮やかで美しいものにしていると感じた。

また作中にはあらゆる命題が登場していたが、「この醜い世界は生きる価値があるか」と一人の登場人物は問う。
一方でほかのキャラクターが全く違う文脈でこう言う。
「こんなにも美しい世界を神以外が作れたわけがない」(意訳)
両者の言い分を聞ける読者だけが、まずもって感性を通して前提が成立しているという構造を知ることができる。
前提を見直すこと、これは哲学の基本のキである。
つまり恣意的に構成された結論をもとにフェアな論理を通して歩いても、行く先がフェアな真理であることはない。
適切な解は適切な設問を通して与えられるのだ。

世界を美しいと感じるのか、醜く不平等なものだと感じるのか。それは当人が当人の努力幅の外の要素によって齎され醸成されてきた結論である。
自分が取り上げる重要な要素は二つある。一つは「自分が世界をどう眺めるかを選択できているかどうか。」である。
腐敗した政治家への義憤の情を持て余したり、身近な人への過剰な期待感に囚われたり、過去に起こったどうしようもないことを今も引きずっていたり。
在りたい自分でいられているかと、眺めたいように世界を眺めているかどうか。
その設問によって、自分の姿がある程度浮き彫りにされる。
視野が広がる機会、それは選択をし直す機会でもあるのだ。

次にどちらかというと著者が主体となって重要だと語るものである。
それは”美しいかどうか”である。
自分は美しいと感じるかどうかは、感性が真理にある程度精通しているか、という非常に観測しにくい要素によって
裏打ちされているためそれを頼りにするのは危険であると感じる一方、ある程度調整のされた真理に基づく感性は役に立つとも感じている。

エピソードの中でこういうシーンがあった。
仮説で出た答え(天文学会では最も有力だと言われている説)を見せて、これが正しいと思うか?と問うた。
「極めて真理に近い」と答えたが、次の設問は「お前はこれを美しいと思うか?」だった。
主人公は暫く沈思した後、「美しくない」と答えた。
(最終的にその仮説は間違いだった)

非論理的な道を通って論理の答えを導くという無謀なアプローチは、驚くことに歴史上に名を残した人物の中では散見されるのだ。
自分は「女神がこの数式であっていると夢で伝えてくれた」という天才数学者がのちに他の学者が正しかったことを証明したというエピソードが脳裏に浮かぶ。
夢で、という行程は非常に飛躍的であり、それに比べて美しいと感じるかはという手法はあまり飛躍的ではないといえる。
なぜなら当時の天文学者は少なくとも美しい回答のいくつかの事例を観測によって手に入れている。(当然、想定した美しさの形が違ったことは幾度となくあったとしても。)
ある程度宇宙、天体の動きの美しさにおいて思いを馳せる余地があったと考えられる。

以上の比較検討をもってしても、美しいと感じるかどうかという設問はある程度、ある分野、ある段階において非常に機能的であると考えられる。
数学は神の歌であると言葉を残した偉人もいたが、やはりそこには人間が投影できる幅を大きく超えた、宇宙の秩序ともいうべき美学が発見されている。

普段の生活において、美しさの効力の大きさを感じることはあまりない。
なぜなら人は美しさに浸っていられるほど、余力を持っていないからだ。そして、美しい構造や一般において美しいと称されるもの
(花や立派な建築構造や夕日、美術品など)が持っている内面的な本当の美しさを静止し拾い上げ、美を通して世界と対話するという教養がないのだ。(この教養は特に成人してから求められる。アイデンティティが色濃く決定される時期の後。)


鬱と脱鬱を経験した自分はよく理解できる。憂鬱な状態、あるいは現実をなんとかしようと奔走すればするほど、美はまずもって切り捨てられるべき要素だからだ。
本当は、憂鬱な時、忙殺されそうなときほど、美しさを必要とするのに、美しさを感じる回路が断たれてしまう。

しかし主人公は、論理的におそらく正しいと知っていながら「美しいとは感じない」と断言することができた。それは数学や天体の美しさを受け取る回路を閉じていなかったということである。
使われる回路は広く開かれる。対して使われない回路は徐々に閉じてしまう。

著者が描いたものの中で秀逸なのは、真理が美しいものだということを疑ってかからなかったことである。
著者自身の哲学的作業で発見された真理のいくつかが、美しい構造や姿をしていたことが、以上のセリフから読み取れる。
それは正しい哲学の在り方のように自分は感じる。
(何が正しい哲学かはおいておいて。)

次に作中終盤、パン屋の息子が大学に行ける機会がやってきたのに親の店を継ぐと断ったシーンから抜粋する。

「すべてのもんにはアレテーがあるって。意味は”自分の得意なこと、自分にしかできないこと”だっけ?
 鳥のアレテーは飛ぶこと、イスのアレテーは座られること、その賢人曰くじゃあ人間のアレテーは考えることだってな。
 俺のアレテーはパンを焼くことだ。じゃあお前のは?」

これには思わず精神的な意味で、深夜の二時ごろ眠気まなこをこすりながら赤べこもかくやという具合の首肯をする羽目になった。

これには問いで終わるという意義がある。
よく勘違いされがちだが、『命題と解は解の方が重要である』というのは間違いである。
優れた命題は優れた解と同等の価値を持つ。

パン屋の父が「じゃあお前のは?」で終わったのが、文学的啓蒙的に非常に秀逸な文であるといえる。
「お前のアレテーはパンを焼くことじゃない、勉強だろ学ぶことだろ」といってしまった場合、物語全体のメッセージ性に瑕疵を生じさせてしまう。

重要なのはそれを大学で見つけること。父が生まれた時からパンが焼けるようでなかったように、息子であるお前もまた、
アレテーを探して精進するんだ。そうすればアレテーは後から見つかる。

そういうニュアンスで伝えなければならないのだ。

作品全体を通して構造的美しさを保持しているのは、それが「どうして生きなければならないのか」という問いに対して著者が用意したアンサーとして”問い”(という形で)が用意されているという点である。
つまりあなたが生きる意味はあなたのアレテーが教えてくれる。それは人生を通して見つかるもので、それを見つけるカギは
(自分がこの記事内でいうところの)優れた問いであるのだ。

だから解と命題は同価値なのである。

好例が上がっているのでここで終わらず、(哲学者らしく)一歩前進してみるが、パンを焼くというアレテーは現代において
優れた解とはならないと感じている。本当のアレテーの姿とは『どうしてパンを焼くのか』で問われる。
得意であればいいわけではない。それを通じて、自分の信念(おそらく著者が言うところの理念)が発揮できるかどうかである。
例えば「おいしいものをこの世界に増やす、おいしいもので溢れさせる」ためにパンを焼く。
例えば「自分の中にある美を外に出して、世界に美しさを表現する」ために絵を描く。
例えば「住むところが人生に影響を最も多く与えると実感した。だからあらゆる人が住める場所を作る」ために不動産会社を設立する。

など、アレテーにも優れたものと素朴な、発見されたままの姿が存在するといえる。
所謂段階があるのだ。
これはアレテーに段階があるのか、それともアレテーを扱う自分たちの意識に段階があるのか。
それとも二つに分けて言及したことは同じことを指していることになるのか。
今の自分にはわからない。けれど、確かに自分に宿るアレテーという考え方は、これから変化を起こさんとする自分たちにとって最も有意義に働いてくれる要素であると考えられる。

押さえておきたいのは、アレテーを通じて幸せになるということだ。
幸せの感情や不幸せの感情は、アレテーの在り方を変える。
感情はアイデンティティと強力に、密接に結ばれているからだ。

自分は自分のポジティブなアレテーを育てなければならない。そして、比較的完成されたポジティブなアレテーを持つ人間は、必ずほかの人間のポジティブなアレテーを育てなければならない。
なぜなら他者のアレテーと共感して、自らのアレテーも育つからである。

そして奇しくも、それは日本では薫育と呼ばれる。
自分が再三取り上げ言及してきた人徳の働きと同じである。

これらを一言にまとめて、自分は「善く生きる」と表現するが
伝わった試しはない。(がはは、という盛大な男性の笑い声が聞こえます)

あとがき

以上、かなり作品やその内容を賛美する記事になってしまったが、普通に拷問のシーンとか人が爆死するシーンとか
残酷な表現が多いのでこれで興味を持たれた方は読書に注意が必要であることをここに記しておく。
読んでいただき感謝する。


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