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Perfect Days を観て感じたこと

2023年に日本・ドイツ合作で制作された映画。主演は役所広司さんで公開日は2023年12月22日。私は公開日と2月と計2回観に行った。

ストーリーをお話しすると役所広司さん演じる主演の平山は東京都内のトイレ清掃の仕事をしている。仕事の日は朝早く決まった時間に起き歯磨きをして髭を剃る。植物に水をやり仕事着に着替えカメラ、時計、車の鍵、缶コーヒー用の小銭を持ち家を出る。ドアを開け外の景色を見てふっと笑顔をこぼす。BOSS のカフェオレを買いプルタブを引いてから車に乗り込む。車を走らせスカイツリーが近づいたらカセットテープを流す。
こんな風に平山の日常をただ映すという映画だ。

公開前の予告や公式サイトなどを見て興味を惹かれ観に行った。1回目の感想は面白いとは思ったがそこまでハマるものではなかった。途中あまり理解できないシーンもあり、たかし(映画の登場人物)のセリフを借りれば10の内6か7だった。なぜPerfect Daysというタイトルなのか。なぜあのシーンを入れたのか、など疑問がたくさん浮かんできてはそのままぷかぷかさせていた。

そこから2ヶ月経った。また観たいと思った。それは私が変わり始めたから。映画好きの友が言っていた、「映画はその時の自分の状態・状況で受け取るものが変わる」と。自分自身何かが変わった、変わっていることは感じていた。だからこそ観たいと思った。

2度目の映画はとても面白かった。ケラケラと笑うような映画ではないので正確にはとても沁みたという方がしっくりくる。
平山の日常、ルーティーン、こだわりを写した映画。口数は少ないが穏やかな人柄、人を憎めない性格。

なぜ2度目は沁みたのか、それは私も自分の日常にこだわりやルーティーンを作ったから。ここからは少し私の自分語りに入る。

最近自分と向き合うこと、対話することが増えた。そのおかげで今まで気づかなかった自分のことが分かった。そして現段階での自分の課題が見えた。それは自分で己の人生を充実させれていないということ。

どうしたら日々が充実するのかを考えた。最初に思いついたのは刺激を受けること。できる限り外に出て、人と話したり映画を見たり景色を見たり、やったことないことにも挑戦してどんどん刺激を受けて自分の視野を広げ感性を豊かにしていくこと。

それも一つの方法だが、そればかりだと疲れてしまう。さらには時間とお金もすごくかかる。もっと身近にできることはないかと考え、瞑想を始めてみた。心を落ち着かせ湧いてくる感情や思考を素直に受け入れる。時には自分の呼吸に集中し思考を止める。これがすごく良かった。不安定気味だった心が少しだけ安定した。いや、不安定を受け入れられるようになった。

もう一つ始めたことが毎日掃除をすること。仕事の日は朝、中抜け、夜、どの時間もダラダラと過ごしていた。すごく見たいわけでもないユーチューブやネットフリックスを見てゴロゴロとする。掃除なんて週に一回もしていなかった。

今では天気が良い日は出勤前に布団を干す。朝はなるべく早起きしてちょっとでも外に出る。瞑想をする。最近はnoteに日記も書き始めた。
中抜けの時間には一度帰ってきてトイレ、風呂・洗面の掃除、フローリングのコロコロ、干していた布団の取り込み。これらを必ずやるようになった。

こういう生活に変えてから気づいたことがある。毎日同じことをやっていると自分の中にこだわりができてくる。こうやったら綺麗だとかここは手を抜いてもいいがここはしっかりやろうとか。これに気づいた時にまた映画を観たくなったのだ。

この生活を続けてちょっとだけ毎日が充実しているように感じることもできた。1日を終えるときに今日も頑張ったと思えるようになった。少しだけ自分を褒めてあげれるようになった。

以上自分語り終わり。

私は今まで自分はこだわりが少ない人間だと思っていたが実際はそうではなく思い返すと色々とこだわりはあった。自分の中にこだわりが生まれ、それを認識した。そうやって映画を見ると平山のこだわりを感じることができた。

平山は自分のこだわりとルールをすごく大切にしている。仕事の日のルーティーン、休みの日のルーティーン。自分がやりたくてそのルーティーンを毎日こなしている。後で話すがこの「自分がやりたくて」ということがとても大切。

自分のやりたいことをこだわりをこなす。そうやって過ぎる1日1日はきっと充実しているはずだ。

充実、、、このPerfect Daysは「充実した日々」、そう感じた。この映画の中に充実のヒントがある。

この映画の中で何となく自分が違和感を感じたシーンが2箇所あった。
一つ目は姪のニコとのシーンで2人で自転車に乗りながら「今度は今度、今は今」と交互に言い合うシーン。
二つ目は小料理屋のママの元旦那さんと影踏をするシーン。年を重ねたおっちゃん2人であんなことするだろうか。もちろん可能性としてはゼロではないが。

この二つのシーンには取ってつけた感があった。この違和感について考えた。これは平山の普段の生活にはない出来事だから馴染んでいない、非日常の光景。だから浮いていて当然。しかし人生において非日常の出来事なんて当たり前のように存在する。非日常があるのが日常でもある。このシーンはその非日常を強く印象づけるためにわざと誇張されたのではないか。こういった非日常も含めて「充実した日々」ではなかろうか。
これが私の解釈。

自分の生活を振り返ってみて、散歩、掃除、瞑想などで日々を丁寧に暮らすようになった。それなりに気分は変わった。家が綺麗だと気持ちがいい、朝の散歩は気持ちがいい。この生活を続けて3週間ほど、充実はあまり感じなくなっていた。これでいいのか、と疑問が募っていく。

「丁寧な暮らし」=「充実した暮らし」ではない。私が心がけている「丁寧な暮らし」には「自分がやりたくて」の要素が少ない。自分が心から望んで丁寧な暮らしをしているのではなく、この生活の先に充実した日々があり、そこには自律し自立した自分がいるのではないか、という見返りを求めている。

平山の生活には見返りを求めている感じがない、少なくとも私は感じなかった。平山にも欲はある、お昼休憩でお寺のベンチに座りサンドイッチと牛乳を食べ、木の写真を撮り、気にいった植物があれば家に持ち帰る。仕事終わりに一杯ひっかけ、休みの日には行きつけの小料理屋で時間を溶かす。きっと密かに恋もしていたのだろう。

彼は人間臭い。彼の過去の描写はほぼないが、きっと自分との対話をたくさん重ねてきた人だ。自分が何が好きで何をしたいのか、そしてその逆もしっかりと向き合ってきた人。口数は少ないく人を嫌いになれない人。そんな風に描かれている。

そんな彼の生活には自分のこだわり・欲はあれどやはり見返りは求めていない。これが私と平山の決定的な違い。

私はやりたいことをやっているのでなく、見返りをありそうな選択をしている。だから、満たされない。

だからと言って今の丁寧な暮らしを全部止めることはしない。この生活で得られた物もある。この生活の先に充実があると思ったが実際にはなかった。これはやってみたからこそ分かったこと。「とりあえず」やってみて良かった。

「日日是好日」という映画を教えてもらった。6年前の映画。まだ見ていないがユーチューブの予告を見た。その中にあったセリフ。

「お茶はねまずは形なのよ。初めに形を作っておいて後から心が入る物なのね。」

今の丁寧な暮らしに私の「心」は少ない。ただ形はできかけている、形が出来上がるとそこに心が入るかも、心が生まれるかも。だからやめない。

結局足りないのは自分との対話、そこに尽きる。自分と話し、実践して、どう感じるか、試行錯誤の繰り返し、トライアンドエラーの積み重ね、その先にサクセスが待っているかもしれない。そのトライアンドエラーの繰り返しで満たされるかもしれない。

まだ始まったばかり。そう焦らず進んでいこう。私が求めているものはいつ見つかるか分からないものだ。死ぬ時に見つかるかもしれないし、一生見つからないかもしれない。その渇きに足掻き続けることが答えかもしれない。今はそう思えないけど、むしろその渇きに苦しみ悩まされているけど。

それでもいい、少なくとも今の私はその渇きや不安や苦しみを自覚できる、受け入れられる、弱い自分に寄り添うことができるから。

ならば今はしっかりと生きていこう、命あるかぎり。







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