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スコラーズ① (オリジナル小説)

 「大学教授」。その職業を聞いた大半の人間はこう言うだろう。「ああ、あの部屋に籠って研究三昧のお堅い野郎のことか」と。あるいはそこまでひどくなくとも、次のような言い分が飛び出るに違いない。「ああ、とっつきにくいよね」という偏見が――。  
 だが、実のところ、大学教授とはそこまで浮世離れした存在でもなければ、不名誉極まりないレッテルを貼り付けられるような高潔で傲慢な職でもない。普通に怠惰であり、普通に腐敗した思考を持ち、普通に無駄話を謳歌する、そんな「普通」の存在なのである。 そして、普通に学生想いの存在なのだ。

            ◇

「ハア、虹村うざ。あいつの授業必須なの恨むわ」  
 とある大学のキャンパスにて、金髪の青年が苛立たしげに舌打ちする。相当怒りで染まっているのか、青年は後ろに立つ男の存在に気づかなかった。
「野村くん」
 男が学生の後ろから声をかける。その男こそ、彼が先ほど話題に挙げていた男であり、その大学で英国文学を教える文学教授であった。名を虹村英という。
 当然、青年は顔を真っ青に染め上げた。今まさに苛立ちをぶつけた人物が後ろから現れたのだから。
「君はどうやら、私の授業に不満があるようです」
「いや……その」
「いえ、弁明は不要です。ところで、君たち学生が授業を快く受けられないというのは、こちらとしても望ましくありません」
「は?」
「ですから毎回、授業の終わりには教員への意見や質問を書く用紙を配っているのです。しかし、なぜ毎回無記入なあなたが不満を口にしているのでしょうか」
 男が真顔でそう問う。端から見たら相当意地悪な責め方をしているように見える男の本心は、実は単純に疑問に思っていただけだった。つまり、男が求めるのは、謝罪ではなく、理由の説明なのである。
 すかさず形だけ謝罪を口にする青年を遮って、男が答えを催促する。
「あの、答えてもらっていいですか? ああ、別にプレッシャーをかけるつもりなんてありませんよ」
 ごく真面目にそう言ってみせた男は、青年が内心「いや、かかってる! プレッシャーの豪雨が降りかかってる!」などとツッコミを行っていることには気づかなかった。

            ◇

 虹村英は変わった男として有名である。むろん、最初は学生たちの間でそう評されていた。だが、あまりにもその風評を口にする母体が多ければ、当然虹村の耳にも入ってくるのは当然だ。虹村本人としてはその事実を快く思うことはなかったし、なんとか汚名を返上したいと思っていたものの、それがうまくいくことは一度たりともなかった。
 だが、そんな虹村とて悪評ばかりが突っ走っているわけではない。若くしてその名を学問の世界に轟かせた虹村は、教授としての質だけは高く評価されていた。そんな虹村に教えを請いたいと願う学生は決して少なくはないが、コミュニケーションを進んで取りたいと立願する学生は少数だ。すなわち、ゼミ生の数の割には、虹村の研究室を訪れる者はそうそういないのだ。だが、その日は珍しく、一人の客が彼の研究室を訪れていた。
 その人物こそ、下田沙耶。成績優秀な大学3年の女子学生だ。その日、下田は虹村が下したレポートの評価に不満を抱いたようで、虹村は説明を求められていた。
「作品イコール作者の考えだと思う学生は多いです。それが誤りです」
「どういうことですか?」
「20世紀に活躍したアーネスト・ヘミングウェイ。彼はアメリカン・インディアンや黒人を否定的に描写する作品を残しています」
 椅子に深く腰掛け、目は閉じたまま、虹村はヘミングウェイという作家について語った。曰く、ヘミングウェイは人種差別的な作品をいくつか残してきた。故に、彼の思考が差別主義だと考える読者も多く見られたのである。だが、彼の生い立ちを考えれば、彼を差別主義者だとみなしていた者は皆驚くだろう。なぜなら、彼の父親は寛大な医師であり、黒人も患者として同等に扱ったからである。その時代はまだ人権を求める運動が活発化する前であったのにかかわらずだ。そんな父親を見て育ったヘミングウェイがなぜ差別主義的な作品を書いたのか――。わかりますか、と聞かれて下田は首を横に振る。それには反応せずに虹村は続けた。
「こう考えたらどうですか? 彼は自ら書いたんじゃない。書かざるを得なかったのだと」
「っ!」
「ですから、下田さんがレポートで作者の考えだと言い切ったとき、私はペケをつけました」
 虹村の解説に下田が黙り込む。反論するつもりはないようだった。
「別に見当違いなことを書いたとしてもいいんです。そこから学べばいい。なんなら、文学の世界に正解などないに等しい」
「……っ、はい」
「問題は、私が先ほどの見解を何度か授業で口にしていることです」
「! すみません」
「いいえ。別に1度や2度くらい、私の教えが反映されてなくても構いません。しかし、私の記憶では3回くらい指導しているはずです。不真面目な学生ならともかく、真面目なあなたがこうも学びを活かせないとは……」
「本当にすみません!」
「あ、いや。別に謝ってほしいわけじゃありません。……なにか、抱えているんですか? 授業に集中できないほど」
 とたんに、下田の目が見開かれた。そして、わなわなと唇が震えだす。だが、すぐにあきらめたように笑い、下田は事の次第を話し出した。
 下田のいうことには、最近、情報の流出が立て続けに起こっているのだという。それも3週間に1度の割合で。
「私の秘密を先生だけに申し上げますけど……私、Vバーをやっているんです」
 さらに下田が告白する。
 V-battle (Virtual battle)。略称「Vバー」。それは、テクノロジーが急速に発展してから流行化した仮想ゲームである。少し前に世間を賑わせたV-tuber と格闘ゲームが組み合わさったコンテンツであり、名前の通り、参与者は仮想的に格闘を楽しむのである。仕組みはV-tube とさほど変わらず、体につけた機械と画面上のキャラクターが連動して様々なアクションを見せる。それに新たに付与されたのが仮想知覚体験機能であり、画面の世界で他の仮想人間と接触をした際に、その信号が機械を通して生身の身体に告げられるのだ。いわば、画面上のキャラになりきって、同じ仮想世界の相手との対戦を繰り広げることができるサービスといったが誤解がないだろう。
 その V-battle こそ、今の学生間で盛り上がりを見せており、下田もそれに魅了された一人だった。だが、決闘であることもあり、世間一般からの評判はよろしくない。見るだけなら問題ないのだが、もし就活生や受験生が配信者側としての経歴をもつならば、それはあまりいい効果を発揮しないだろう。3年生の下田にとって、匿名で行っていたVバー活動が明るみに出るのは痛手だった。
「私のチャンネルはそこそこ有名で……。そのアカウントを寄越せ、さもないと私の情報をばらすとの脅迫文が送らてくるんです。Vバーとしてのいままでの積み上げを簡単には譲れません! でも、今、大事な時期だから……」
 下田が口すぼみにそう呟けば、今まで黙ったままだった虹村がようやく口を開いた。
「で、下田さんはどうしたいんですか?」
「え……?」
「問題点はなんでしょう? 情報の流出? 脅迫行為? Vバー活動が就職活動に影響を及ぼすこと?」
「え……」
「ああ、別にプレッシャーをかけるわけではありません。しかし、随分混乱しているようでしたので、1回頭の整理をしたがいいのではないですか。どうでしょう。箇条書きに論点を書き出してみるのは」
「かけてるじゃないですか! スプリンクラー並みにかかってますよ!」
「はい?」
「なんで、そんななんですか!」
 彼女とて、自分が支離滅裂なことを口走っているのは承知していた。それでも、目の前の学者面した男が、「大学教授」という特殊で未知の存在が、彼女を救い出す秘訣を提示してくれるような、そんな確証のない信頼があったのである。 だが、虹村の口から出た言葉は、悩める少女にとっては残酷な仕打ちであった。
「……っ! やはり、先生は先生なんですね。警察に相談できないってことすら、頭のいい先生ならくんでくれると思ってたのに! もういいです!」
 半ば椅子を引きずるようにして下田が立ち上がり、出口へと向かっていく。そんな下田を特に引き留めることはなく、虹村は怪訝な面持ちで彼女の一連の行動を眺めていた。
 まるで己の失態が理解できないといわんばかりに、虹村の顔は気難しくゆがめられていた。 

            ◇

「おかしいですねえ。なぜか学生たちとの溝が広がっているように思います」
 焼酎を片手に虹村が愚痴を吐けば、その横にいた男はなぜか嬉しそうにお酒を口に煽った。男の名は国重春信。虹村と同じ大学に勤める言語学教授であった。
「そうなんですか?」
「人の不幸を酒のつまみにする人がなぜ大学一人気があるんでしょうか」
「いやですね。僕は、虹村先生のお役に立てればと思ってですね」
 眼鏡がトレンドマークともいえる国重が、そのレンズの奥で目を細める。虹村は納得できないが、この国重という男は学生からの人気が凄まじい、いわば大学教授界の珍種なのである。課題の量や勤務態度は虹村とさほど変わらないはずなのに、なぜかその男だけは「優しい」だの「紳士的」だの言われて持て囃されているのだ。虹村が国重を嫌わない理由がない。
「はあ。気分転換に飲みに来たというのに。あなたがいるとは、気分低下に来たようなもんです」
「うまいようでうまくないのがまた……」
 もの言いたげな国重の視線を振り切るようにして、虹村が残りの焼酎を口に流し込んだ。空になった焼酎カップの中で、わずかに残った水滴が店の光を浴びて発光する。七色に輝くその色彩は、虹村の心をひどく感傷的に締め付けた。
「まるで、このカップですよ、私は」
「すみません、その話はどのくらいの予定です?」
「学会発表1回分くらいです」
「ええ……。10文字以内でまとめてくださいよ。下田さんにもそう言ったんでしょ」
 国重の指摘に、虹村が気まずそうに顔をゆがめた。ですけどね、と虹村が続ける。彼の感覚としては、下田は状況に困惑した様子に映ってしかたがなかった。あのまま混乱に翻弄されるくらいなら、一度心の整理をしてみてもいいはずなのだ。むしろ、パニックに陥れば陥るほど状況悪化に嵌っていくのだから、箇条書きに自身の心を書き出していくのは有効な方法であったはずだし、むしろ虹村からしてみれば適切な助言ですらあったのだ。
 自らに悪意はなかったことを白状した虹村に、国重は大きなため息を吐く。
「下田さんからしたら、問題点をまとめるのはあなたの役割として期待してたはずですよ」
「自分の問題でしょう?」
「ええ。でも、自分で解決できたら、世の中からカウンセリングや相談事なんて概念は消え去ると思いますけども。ましてや彼女はまだ学生です」
 重い国重の言葉に、虹村が己の言動を悔い改めたときだった。
「Hey, I’m sorry~! But not総理~」
 陳腐なダジャレを口にしながら、ぽっちゃり体系の金髪の男が飲み屋の入り口から顔を出した。その顔はニコニコと笑みをまき散らし、頬は赤く染まっていた。
「うわ。もう酒はいってんですか、レイチャ―ド先生……」
「さけはさけてきたよ~! さけだけに!Woohoo!」
「酒気帯び通常運転の人ですから、無駄ですよ」
 新たな同僚の登場に頭を抱えながら虹村がため息を吐いた。その横ではレイチャ―ドと呼ばれた男が絶えず国重に絡んでいる。国重から出されるSOSを丸無視して、虹村は再度口を開いた。
「では、なんだかんだそろったんだから、いつもの始めましょう」
「まずは人命救助が先では?」
「Oh! 今度の悩めるlambはwho?」
 レイチャ―ドがハイテンションで虹村の方へ身を乗り出せば、背中から乗りかかられていた国重から蛙のようなうめき声が漏れる。そんな国重を気に留めることはなく、彼らの会議が始まった。

            ◇

 虹村の話を聞き終えた国重とレイチャ―ドは、お互い顔を見合わせて深いため息を吐いた。
「ね? ひどいでしょ、この人」
「Oh, 下田サン、カワイそーだよぉ」
 咎めるような同僚の視線をはね退け、再度虹村が口を開く。
「で、肝心の情報漏れとその犯人なんですが、それ自体は把握できてるんですよ」
「おやまたどうやって?」
「脅迫メールの頻度が3週間に1回というのがきになりましてね。ゼミの発表の頻度と重なるんですよ」
「なるほど。それで?」
「私のゼミでは発表のときにパワポで発表資料を作らせます。そして、それを共有するんです。テキストの引用を載せる学生もいるのですが、彼らは乱雑ですよ。スマホのスクショを載せるんですから」
「Oh, せっかちなんだねえ。思わず、センセ、かちん?」
「……虹村先生のおっしゃりたいことはわかりますよ」
「圧縮しないとトリミングしてもその元のスクショは見れるじゃないですか。そして、当然、スクショを元に戻せば変更履歴が残る」
 そこまで話すと、虹村は酒を再度口に含んだ。「会議中のさけはさけて」なんてかます同僚はもちろん無視である。
「ああ、なるほど。それで『犯人』とやらも分かったんですか」
 虹村の言葉に国重が頷いて見せる。というのも、彼ら教員には共有ファイルの管理者としての権限があるため、誰がいつ資料を弄ったかは把握可能なのだ。 「ここからは情報の扱いに気を付けなければならないのですが……」
 そう言って、虹村がポケットからメモ用紙を取り出す。そこには、箇条書きに文が羅列してあった。上から「18:04 今日は時間通りに食べなさいよ」「18:41まじ? 楽しみにしてる!」「今 under節楽しみですw」「22:23 最高だった」というメモ書きだった。
「彼女が処理し忘れたスクショのメモです。メッセージアプリの通知をオンにしていたようで、ばっちり映ってました」
「最初、『今日は』が文頭に置かれて強調されているから、いつもはそうではないということがわかりますね。お母さんからですかね? 確認ではなく強調のモダリティが使われているので、下田さんは故意的に夕食時間をずらしているのでしょう。三つ目の丁寧語の人は下田さんとある程度距離がある人みたいですね。 四つ目は10:23より前に何かイベントがあったようです。下田さん何かされているんですか?」
「Vバーだと。そこで、18時~22時の活動時間帯でunder節というキーワードがヒットするVバーを検索したら、とあるチャンネルが出てきました。『シモシモチャンネル』で、通称underと呼ばれているようです。下田さんのアカウントで間違いないでしょう」
「んでー、犯人の情報は~?」
 だし巻き卵を口いっぱいに頬張りながらレイチャ―ドが問う。それに頷いて、虹村はあるコメントを同僚2人に掲示した。
「そのチャンネルに下田さんを特定させるような書き込みをしている人がいます。すなわち、学生の彼女と活動者としての彼女を知る者。そしてこの時期を考えると、パワポを弄った本人でしょう」
 そう言って虹村が見せるスマホの画面には、「N大」「3年」「Sさーん」などの書き込みがある。下田自身は反応しないようにしているようだが、もし下田の身分が明るみになれば、彼女はVバーとして活動しにくくなるのは間違いない。そして彼女のリアルな生活にも影響は出るだろう。
 卑劣な手口に国重が顔をしかめたときだった。今まで食べることだけに集中していたレイチャ―ドが、虹村の手からスマホを奪い取った。
「みっせて~! ok. で、送信!」
 すかさずコメント者のアイコンを拡大してその写真を撮ったレイチャ―ドは、その写真をどこへやら送り出す。
 何を隠そう、レイチャ―ドはイギリス出身の教育学者で、異文化コミュニケーションの研究者でもあった。そして、そのインターナショナルかつフレンドリーな性格ゆえ、友人の幅が広いのだ。
「友達千人に、このアカウントのこと教えて~て言ったよ! あ、返信きた!」
「「はや!!」」
 仲良く同時にツッコミを口にした虹村と国重に、レイチャ―ドがスマホを差し出す。そのスマホを虹村と国重がのぞき込み、すぐさま顔を見合わせる。
「どうします?」
「決まってるd「Of course! Let’s carry out our mission!」
 国重の言葉に被せるようにしてレイチャ―ドが言う。もはや、彼らの意思は決定されつつあった。

           ◇

 若者を中心に人気沸騰中のVバーであるが、その中でもここ最近賑わいを見せているチャンネルがある。「スコラーズ」というチャンネルであり、メンバーはリーダかつ執事キャラのレインボー、おちゃらけキャラのレレレ、そして堅物キャラのグラースという構成となっている。レインボーは虹色の髪をセンター分けにしたキャラクターであり、レレレは黄色いリスである。グラースは眼鏡が特徴的な深緑の髪のキャラクターだ。
 もちろん、その個性的なキャラクターが人気の理由という部分もある。しかし、何よりも人気を集めるところは、それぞれが博識キャラとして知識を利用した戦闘をするのである。しかも、その対戦相手が社会的に不良を働いているものであり、世間的にも不評な対象が華麗に成敗される様は、人々のある種のストレス発散となっていた。
 その日も、話題のチャンネルに多数の視聴者が集まっていた。
 チャット欄が賑わう中、「スコラ―ズ」のリーダーが口を開く。
『諸君、今夜もお集まりいただき誠にありがとうございます』
 とたんに、チャット欄が歓声に満ちる。それを歓迎するかのように、画面上でレインボーがゆらゆらと揺れていた。
『本日のゲストは登録者数1723人の某チャンネルでご活躍中のN君。彼は、悪質なコメント荒らしとして名を馳せておられます』
 レインボーが静かにそう言葉を吐けば、コメント欄は異様に盛り上がりを見せる。「名を馳せる」という物言いを笑うコメントもあれば、ゲストを批判する声もある。コメント荒らしというのは大半が経験があるのか、あるいは親しいのか、やけに執拗に取り上げられていた。
『では、登場していただきましょう!』
  レインボーが声を張り上げたときだった。
『なんで俺がターゲットなんだよ!』
 金髪を天井に向けて立たせたキャラクターが、顔を真っ赤に染め上げてその姿を現した。
 それもそのはずである。「スコラーズ」が目をつけた相手は、本人の意思には関係なくそのチャンネルに連れてこられるのだ。何がそれを可能にするのかは、誰も知るところではないが。
 強制的な「何か」に無理やり連れてこられたのだろう。男は怒りを露わにして3人を睨みつけた。Vバー同士は、機械さえ身につけていればコミュニケーションを図るのにその居場所は関係ない。したがって、男はどこにいるかも知り得ない、それも画面上で初めて会う3人の男たちに対して警戒せずにはいられなかったのだ。
『N君、君が嫌いな授業はなんですか?』
『はあ? てか、イニシャル出すとか犯罪じゃねーの?』
『さあ、お答えください。嫌いな授業は?』
『んなの、文学に決まってんだろ!』
『文学……N君は大学生なんですか? 』
『白々しい! イニシャルまで知ってるってことはわかんだろ!』
『おや、公開承認していいのですか? 知らないふりしてもよかったのに』
『てめえ!』
 男が怒れば怒るほどコメント欄は盛り上がる。レインボーの煽りのスキルを絶賛するものも多かった。
『ところで、イニシャルは嫌だと申されましたね? でしたら、君の名前はシャイロックです』
『は』
 誰かが「ヴェニスの商人!」とコメントで呟いた。だが、シャイロックと名付けられた男は怪訝そうに顔をしかめている。実をいうと、「ヴェニスの商人」は虹村が授業で扱ったことのある作品であったが、不真面目な男がそれに気づくことはなかった。なんなら、レインボーの正体が、己が毛嫌いするかの文学教授とは知るまい。
『おや、授業で習いませんでしたか?』
『知るか! んなの』
『では無知なあなたのためにあらすじを。シャイロックという狡猾で利己的な男がいました。彼は、自分とは正反対で人々から慕われている男にお金を貸します。彼が妬ましかったのでしょうか。シャイロックは、お金を払えなかったら肉を1ポンド切り落とすぞと脅します』
『はあ? 馬鹿じゃね? 俺だったらそんなもん貰うより利子高めにとるわ!』
 すかさずコメント欄では、「そういう問題ちゃうw」やら「闇金の卵」やらのコメントであふれかえる。それを見て、レインボーの中の人物は深くため息を吐いた。別に登場人物の行動に理解ができなくてもいい。なぜ理解しがたいことを行動に移したのかを問うことが文学の営みなのだから、それを「授業で」発言するなら問題ないのだ。
『きみは馬鹿なことばかりしてないで、授業に真面目に出なさい。せっかく考える力があるんですから』
『はあ? 馬鹿にしてんのか! インチキインテリ野郎!』
 もちろん、「彼」にはその意図はなかったのだが、そんな彼の意思とは逆に、コメント欄はレンボ―の挑発を称賛する声であふれかえっていた。
『シャイロックは金の代わりに男の肉を要求しました。しかし、彼はこう言われるのです。契約書には血を流すという文句はない、契約書にない血を流さずに肉を切り落とせなければ契約違反として全財産を没収する、と。もちろんお金の代わりに肉を要求したのですから、今更お金をくれとも言えません』
『じゃあなんも得ないじゃないか!』
『いいえ? 肉を得ればいいんです。一滴の血も流さずにね』
 そんなの無理だろう、と男がつぶやいた瞬間だった。黄金色のリスが男に襲い掛かる。すかさず男が避けた。
『なにすんだ!』
『シャイロックの相手はシャイロックということで。ここには1人と1匹のシャイロックがいます。さあ、お互い、血を流さないようーーLet’ fight.』
 レインボーがそう告げたと同時に再びリスが男に噛みつく。それを避けた男がリスをつかんでぶん投げた。
 ぶん投げられた刺激が仮信号として中の人物にも送られる。当然、画面越しのリスから悲鳴が上がった。さながら動物虐待の絵面にコメント欄がさらに荒れる。もちろん、小動物の中身を知っているグラースは無反応だが。
『シャイロックの悪事は対局の善人がいたから際立ったのだと私は解釈しています。ときに善人は弱者として描かれますからね』
『何をわけわかんねーこと言ってんだ!』
 とたんに男がレインボーに殴りかかる。だが、レインボーの顔すれすれに放たれた拳は、光の膜によって弾かれた。
『私はレフェリーです。レフェリーに手を出すのはV-battle の規約違反です。ああ、規約違反といえば』
 レインボーが無表情で男を見つめる。その不気味な視線に男がたじろいだ。
『全財産の没収。V-battle ではアカウントこそ財産ですよねえ』
 男の目が見開かれる。つまり、それは男の配信者生命の剥奪でーー。
『ざけんな! んなことできるわけーー』
『運営に問い合わせたら、君のアカウント停止可能みたいだな』
 グラースの言葉に男の顔が絶望に包まれる。
 いっそのこと、自暴自棄になって暴れてやろうかと男が足を踏み出したとき、虹村が淡々と言葉を紡いだ。
『ですが、この物語ではシャイロックにも情けがかけられます。キリスト教に改宗することが条件ですが。そうですねえ。こういうのはどうです? これからの学校生活及び交友関係を改めること。それを条件に君のVバーとての権利は守られますが?』
 地獄の中での甘美な提案に誰が抗えようか。
 男が黙って頷く。そして、コメント欄には歓声が溢れかえったのだ。
 そう、これこそ、「スコラーズ」の手口なのだ。Vバーと称しながら、格闘はほぼ行わない。使うのはその知恵と知識、そして弁論術のみである。その特殊さから、ある意味新感覚ユニットとして有名な彼らだが、その時彼らは知らなかった。
 画面の向こうで不気味にほほ笑む女の顔があることを――。

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