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【日本/埼玉県/秩父/横瀬町/地域おこし協力隊】【5月】【㊙極秘・リアル㊙】秩父夜祭・新穀奉献祭は、横瀬町宇根地区神饌田御田植祭から全てがはじまる+αの素敵な出会い

皆さん、お久しぶりです。
横瀬町地域おこし協力隊ウェルビーイング担当のやすこです。今日はずっと大切に温めていた体験をまっすぐ向き合えるタイミングが来たので
noteに向き合いたいと思います。
今回も心を込めて横瀬町の魅力を発信します。

1.秩父地域の集大成は「秩父夜祭」にあり

以前の記事でも書きましたが
秩父地域は365日祭りがあると言われるほど
地域の人々は令和になった現在でも
地域の文化・伝統を子々孫々へと
引継ぎ大切になされています。

その中で「秩父夜祭」は秩父地域の人々にとって
1年の集大成となる意味・意義のある重要なお祭です。

昨年(2023年)お世話になっている町民の方々のご厚意を頂き、勿体なくも御神幸行列の1人に選んで頂き高張提灯を担当させて頂きました。

「秩父夜祭は、凄い!凄い!」と聞いており
はじめての秩父夜祭
まさかの
御神幸行列での参加に
当日の記憶がないほど
緊張していたことを覚えています。

私は、12月3日に執り行われた
御神幸行列に参加し
6台の笠鉾・屋台行列を拝見
させて頂きました。

横瀬町の方が教えて下さった通り
日本三大曳山祭(京都祇園祭、飛騨高山祭)の一つである「秩父夜祭」
まさしく「祭は命がけ」という表現が相応しく
終始、神聖で緊迫した雰囲気の重圧に
耐え忍ばなければいけない感覚になるほど
非現実的な時空と空間の中に引き込まれました

「秩父夜祭」はただのお祭ではなく
この地域の生きた歴史をつなぐ
魂のこもった祭り
であり
1年の集大成と
新たな1年へのはじまり
なのだと感じました。

「秩父夜祭」については
昨年、御神幸行列に参加する時に書いたので
もしよかったら見て下さい^^

2.秩父神社の由緒

祭神:①八意思兼命、②知知夫彦命、③天之御中主神、④秩父宮雍仁親王(①やごころおみかねのみこと、②ちちぶひこのみこと、③あめのみなかぬしのかみ、④ちちぶのみややすひとしんのう)

秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。その後、昭和3年には國幣小社の社格となり、現在は神社本庁の別表神社となっています。平成26年には御鎮座2100年を迎え、同年12月3日の例祭において天皇陛下より臨時御奉幣を賜り盛大に祭典が執り行われました。現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財と重要有形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。平成28年には、全国33件の祭からなる「山・鉾・屋台行事」の1つとして、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界無形文化遺産に登録されました。

秩父神社HPより

3.秩父夜祭の由来

現行十二月三日の夜祭をめぐっては、今でも地元に語り伝えられる微笑ましい神話があります。それが語るには、神社にまつる妙見菩薩は女神さま、武甲山に棲む神は男神さまで、互いに相思相愛の仲であります。ところが残念なことに、実は武甲山さまの正妻が近くの町内に鎮まるお諏訪さまなので、お二方も毎晩逢瀬を重ねるわけにもゆかず、かろうじて夜祭の晩だけはお諏訪さまの許しを得て、年に一度の逢引きをされるというものです。
 この祭には、まず二日の晩に「お諏訪渡り」と言って、神幸路の途中にある諏訪社に予め神幸祭執行を報告する神事があり、翌三日の晩には、神幸行列を先導する六台の笠鉾と屋台も、この諏訪社に近い地点を通過するときには、勇壮な屋台囃子の鳴りをひそめて静かにする例が守られてきました。
たしかに武甲山は、その山麓に対面して鎮座する秩父神社の、いわば神体山に当たります。盆地の南面を遮って一千米ほどそそり立つ山容は、山麓に拡がる秩父市街を見守る巨大な屏風をなすが如くであります。そしてこの夜祭には、市街中央の本社から祭神が武甲山に向けて出立され、この山を正面に望んで「お花畑」という名をもつ高台の「お山」神事によって、神体山に還り鎮まるという古代祭祀の様式が今に潜んでいるのです。
秩父地方開闢の頃に秩父国造が本社祭神を八意思兼神に定め、やがて中世に妙見菩薩がそれに習合します。そのように本社に常在する祭神が出来、いつしか本社の女神とお山の男神が別の神格とに分かれたことで、夜祭も男女二神逢瀬の神事となりました。しかし、それでもなお、古代祭祀の原型をとどめる徴があって、それが唯一、神幸行列の先頭を行く大榊に巻きつけられた藁造りの龍神に求められます。

秩父神社HPより

4.秩父の龍神(大蛇)信仰について

長さ三間ほどのこの藁の龍神は、先に紹介した旧暦二月三日の春祭、今は毎年四月四日に執行される「御田植祭」に登場します。この祭は、春先に豊作を祈って稲作りの所作を神事とするものですが、その際に市内の一角に鎮座する今宮神社の龍神池から水神を神役たちが迎える行事があって、そのご神体が、田の水口をかたどる藁の龍神なのです。そしてこの龍神池は、かつて河岸段丘の豊かな湧水を成し、盆地内でいちはやく住民が定着した中村(丹党中村氏の在所)の水源であり、しかも武甲山からの伏流水とみなされてきました。つまり、そのことは、春を迎える本社の田植神事が水源を通して武甲山の龍神を迎えることを示しており、したがって秋の収穫を終えての夜祭には、神幸行列の大榊に乗ったその龍神を、また武甲山に送り還すことになるのです。秩父神社がその里宮として対面する武甲山の山腹には、「大蛇窪」という故地があって石灰岩の開発が進む今でも、この「お山」に大蛇が棲むという根強い信仰があります。

秩父神社HPより

地元風土の地主神が龍神であり、土地第一の聖山に棲んで治山水源の「大神」(大国主・大名持の神)であることは全国各地の土地神話も物語っています。秩父神社の現社殿にある有名な「つなぎの龍」の伝説も、夜祭で「お諏訪渡り」する理由も、諏訪神も本来龍神であることを思えば、先史以来の「秩父大神」が「お山」に棲む龍神であることと無縁とは考えられません。
こうして見るところ、秩父盆地の中央に鎮座する秩父神社が、なぜこの土地一円の総鎮守なのかが明らかになります。つまりは、盆地全体の聖山・武甲山に鎮まる秩父国魂の「大神」を、春の〝田植祭〟に歓迎し、やがて農事や養蚕の収穫を終えた晩秋に、この〝秩父夜祭〟でまた「お山」に鎮送するという、この毎年の送迎神事、すなわち盆地全体の<風土祭祀>を、当社が千古変わらずに執行してきたからなのです。

秩父神社HPより

5.秩父夜祭の解釈の難しさ(モヤモヤ)

「秩父夜祭」は秩父神社の冬季例大祭です。秩父夜祭を明確に、簡潔に説明することは非常に難しいです。なぜならば、秩父夜祭は、古代、中世、近代祭式が重層化され変遷を遂げているからです。秩父夜祭の根底には神体山(現、武甲山)の神を「蛇」とする信仰観念がありました。これは縄文時代(古代)にさかのぼります。神体山の武甲山の一部である武山(嶽山)には「大蛇窪」という窪地があり、山神が棲息する聖地と崇められていました。

秩父夜祭の信仰軸は、大蛇窪ー祭場(御旅所)ー秩父神社直線で結び、秩父夜祭当夜、信仰軸上の祭場(御旅所)に山の神が降臨すると信じられてきました。今回、御田植祭の説明をさせて頂く前に、まず「秩父夜祭」とは何かについて上記の秩父神社のHP以外にも資料を基に、以下2点の通り私なりの解釈をまとめました。

解釈1:古代【山神山送祭式】春に水の神様を迎え、田植えをし、秋の収穫を終え、秩父夜祭を通して武甲山へ再び水の神様をお送りするお祭のこと。自然崇拝時代のアニミズムの痕跡。(五穀豊穣?)

解釈2:中世以降【年に一度の逢引】秩父神社の妙見菩薩(女の神)様と武甲山に住む龍(蛇)神(男の神)様が年1度、12月3日に逢瀬をするお祭。(子孫繁栄?)

なぜ秩父夜祭の神事・祭式を簡単に説明できないのかは、祭式の重層化とともに、古代の山へ送り帰す信仰観念に、逆の観念である、蛇(龍)の山神が降臨するという観念が発生したからだと思います。これは妙見菩薩様が融合した時期がはじまりだと言われます。また、資料によっては龍(竜)神、大蛇と記載があり、恐らく、同じ神を示していると思いますが、表現が統一されておらず、龍(竜)神信仰?大蛇信仰?など秩父夜祭の解釈に混乱が生まれます。機会があれば、このような疑問を詳しい方にお聞きし、解決できればと思っています。詳細を知っている方がいらっしゃればご紹介ください!

秩父夜祭の信仰軸

秩父地域のシンボルである武甲山についても取材しているので読んで頂けたら幸いです。↓

6.【模擬水田耕作】秩父夜祭のはじまりである御田植祭について(埼玉県選定無形民俗文化財指定)

「4.秩父の龍神(蛇)信仰について」で御田植祭について触れていますが、毎年4月4日、秩父今宮神社での水分祭秩父神社御田植祭が行われます。秩父今宮神社へ秩父神社の神部らが「お水乞い」に行き、水幣(みずぬさ)に水神を憑依して頂く。その後、秩父今宮神社から秩父神社に手渡された水幣によって豊作を祈る「御田植祭」が行われます。秩父夜祭では、この龍(蛇)が御神幸行列の先頭の大榊に乗せられ、再び武甲山に感謝を込めて水の神様を送り返します。「御田植祭」は、秩父神社境内にしめ縄をはって神田に見立て、苗代作りから種まき、田植え、収穫など米作りにまつわる「模擬水田耕作」が行われます。春に水の神様を迎え、豊作を祈り、田植えをします。古代から伝わる山神山送祭式の最初の神事となります。

御神幸行列の先頭の大榊

・武甲山:古代から秩父の人々に「神の山」として崇められている 標高1,304m

・御旅所:大祭の3日夜、6台の山車が集結して神事が行われる場所、この日に限っては「お山」とも呼ばれている

・御神幸行列:3日の夜に神霊を還した神輿が神社から御旅所まで渡御する
順番は、大榊、道案内の猿田彦大神、日月万燈、太鼓等の楽人、綿旗、太刀箱、御手箱、氏子の各町の供物と高張提灯の行列、御神せん、大幣束、神輿、秩父神社の宮司や神官、氏子の大総代、市町村町等、しんがりを二頭の御神馬が務める
屋台は、中近(傘鉾)、下郷(傘鉾)、宮地、上町、中町、本町の順番

・斎場祭:御神幸行列、6基の屋台、傘鉾が御旅所(お山)の定位置に到着すると斎場祭(神事)が始まる

秩父神社HPより:私はまだ見たことがありません。

7.【リアル】㊙極秘㊙横瀬町宇根地区神饌田(しんせんでん)の御田植祭について

やっと本題に入れます!!
今回、見学させて頂いた宇根地区神饌田(しんせんでん)の御田植祭を発信するにあたり、宇根地区の神饌田では唯一「リアルな御田植祭を毎年実施」していることから、その価値を読み手の皆さんに伝えたいという願いがあり、前置きが長くなりましたが、少し丁寧に説明させて頂きました。それでは、本日のメインを書いていきます!!

①神饌田の御田植祭が実施されている宇根地区ってどのような地域性があるの?

現在、私が住んでいる横瀬町は
埼玉県の西部、秩父地方の南部にあって
東京から70km圏内に位置しています。

横瀬町は、東京から電車で約70分の立地の良い場所(近い)にあり、四季を楽しむことができる大自然に囲まれた町であり、人がつながるコミュニティがしっかりとしています。行政区は23区、地区は7地区あります。(個性豊かw)

宇根地区は武甲山丸山より流れ出る兎沢に沿って、7,8,9,10区より成り立っています。

武甲山の麓にある地区ということで、昔は上郷と呼ばれていたとも聞いたことがあります。横瀬町の中でも一段とコミュニティの団結力が強く、お祭を含めた文化・伝統を重んじる地域だと私は認識しています。

先日、発信した秩父三大春まつりの一つである
「宇根の春まつり」を区民が中心となり開催している地域であり、あれだけの偉大な祭りを維持・継続できるだけのコミュニティの強さが今現在もある熱き、情熱溢れる地区なのです。

私が住んでいる中郷地区から、宇根地区に行くときにトンネルをくぐるのですが、その瞬間から少し空気感が変わります。イメージ的にはジブリの世界観です。

※千と千尋の神隠しのトンネルの場面
宇根地区のご紹介はこちらから↓

宇根の春まつりや秩父夜祭など地域の伝統文化に精通している方々も多いので、宇根の行事に参加する時、特に祭りごとの際はすごく緊張します。

②【超重要】横瀬町宇根地区(しんせんでん)の御田植祭の由来について

御手洗場
秩父神社
子宝子育ての虎
つなぎの龍
北辰の梟:願いが叶うと言われています
北辰の梟を進むとこのような場所があります

富田家の御田植祭の当日にその由来についていろいろな方にお聞きしましたが、詳細ははっきりとは分からず、資料もない状態でした。そんな時に、宇根地区のY・Tさんから秩父神社の宮司より「神饌田永代奉仕之由来」について情報を頂いたとご連絡を頂きました。早速、秩父神社に参拝させて頂き、探しましたが、見当たらず、秩父神社の社務所でお聞きしたところ、なんと、御田植祭の時に大変お世話になった権宮司にご案内頂きました。この日、取材準備などはしていなかったので、どうしようかと思いましたが、
書いてある漢字が読めなかったこともあり、その場で、何度も声に出して拝読しながら内容を権宮司に確認させて頂きました(必死w)。権宮司の優しさに心から感謝申し上げます。

富田家の神饌田永代奉仕之由来

【神饌田永代奉仕之由来(しんせんでんえいだいのゆらい)】

先考富田敏夙(つと)に敬神の念篤く 偶々(たまたま)大東亜戦争最中に埼玉縣神饌田指定の依頼を受く 謹んで己が所有の美田を提供し赤誠奉耕(せきせいほうこう)懈怠(けだい)なし而(しか)して 終戦后(ご)この栄誉を永く子孫に伝うべく朝夕敬仰せる秩父神社に引き続き奉仕せん事を發願(ほつがん) 今日に至る嗣子(しし)孝も亡父(ぼうふ)の遺志を継承し茲(ここ)に恭(うやうや)しく大前に奉額をなし以て報恩反(及)始の誠を捧げんとする者也

昭和39年12月 願主横瀬村 富田孝 (富田町長のお父様)

奉耕協賛者 秩父市新井國太郎

現在、秩父神社の神饌田として御田植祭がなされていますが、戦時中は神社を国家管理(自治体系統)で納めていたことから、埼玉県指定の神饌田として依頼を受けたことがはじまりだったそうです。神饌田で採れたお米を毎年埼玉県の神社に奉納されていたようですが、どの神社か、どのような形で奉納していたかまでは特定できないとのことでした。また、終戦後、GHQの「神道指令」によって、神社は、戦前(中)の国家管理の体制から新しい神社本庁という体制に引継がれたました。戦後、神社の体制が変化しましたが、富田家はこのような栄誉を永く子孫に伝えていきたいという願いから、日頃から信仰し敬っていた地元の秩父神社指定の神饌田なったということでした。憶測も含まれてはいますが、この記録によって、時代背景を読み取り、どのように秩父神社指定の神饌田になったのか理解することができました。
参考資料:http://meijiseitoku.org/pdf/f56-5.pdf

秩父神社のHPにも富田家の神饌田御田植祭について掲載されています。2024年は5月12日に実施済
秩父神社のHP:秩父夜祭の12月2日に新穀奉献祭に新穀を大神様に献上

12月1日から12月6日までが秩父夜祭です。
ぜひ12月2日の新穀奉献祭にご参加頂ければと思います。

ここまでで、横瀬町の富田家が令和の現在も尚、
秩父神社のリアルな神饌田御田植祭をなされているのか、収穫後はどのような形で秩父神社に奉納されているのかを明らかにできた
のではないかと思っています。

このような背景を踏まえ、当日の神饌田御田植祭を振り返りたいと思います。

8.2024年5月12日日曜日宇根地区御田植祭当日を迎えて

今回の御田植祭については
宇根の春まつりでお手伝いをさせて頂いたことがきっかけで、お声掛け頂き取材も含め見学をさせて頂けることになりました。

当日までどのような行事なのか
どなたが参加されるのか事前情報なしの中
集合時間と場所だけ把握し
気を引き締め宇根地区に向かいしました。

御田植祭の会場である神饌田
しめ縄で田んぼを四方に囲み、紙垂8枚を付け結界をつくる:神聖な雰囲気

私の自宅(中郷)から御田植祭の会場である神饌田まで、自転車で約5分で到着。こんな近くに神饌田があるとは知りませんでした(汗)
9時前にはすでに準備が始まっており、神部の皆さんは田んぼで作業をされていました。

神饌田の四方には竹が設置され、しめ縄と紙垂によって結界が張られ、神聖な雰囲気が醸し出されていました。この時点で、私の心臓はバクバクです。

早速、御田植祭の祭主である横瀬町の富田能成町長にご挨拶をさせて頂きました。神饌田は富田町長の自宅横にあり、先祖代々から引き継がれてきた神事であることを教えて頂きました。

次に、今回、どなたが参加するのか存じ上げず、ご挨拶をしなければと考えていたところ、宇根地区の重鎮の皆さま、宇根の春まつりや秩父夜祭でお世話になった方々の顔ぶれを拝見し、知っていた方々だったこともあり、緊張しつつもお会いできたことが嬉しく、とても安心しました。

お祭では必ずお会いする宇根地区の男性陣の皆さま!雰囲気があります!
秩父神社の宮司、権宮司、禰宜の皆さまが来られいっきに緊張感が増します。皆さまは祭典用の服装に着替えます

今回、神饌田に入り御田植をされる方は富田町長含め全員で9名
全員宇根地区の男性陣です。

この方々のお役目は神部(かんべ)と言い、
秩父神社が用意された白装束に着替え、リアルな御田植祭の神事をなされます。神部にどのように選ばれるのかの裏話も個々で違い、大変興味深くおもしろかったですw。

①祭典に向け、白装束に着替える

秩父神社が用意した白装束に着替えます
富田町長も着替えます

今回、御田植祭の写真撮影に秩父市からも数名見学者がいらっしゃっていましたが、神事については、原則、公(おおやけ)にはしておらず、宇根地区の御田植祭は㊙の行事であることを神部のI・Tさんに教えて頂きました。

また、御田植祭の神部になれるのは男性のみです。しかし、神部の皆さまがご配慮下さり、白装束が1枚余っているということで、
「近藤さんも着たらいいじゃん」と言ってくださり
大変恐縮で、本来ならば遠慮をしなければいけないとは思いましたがせっかくのお声がけに感謝し、私も着させて頂きました。(号泣)

緊張して、白装束が上手く着れず、お手伝いして頂きました。

御田植祭は、秩父夜祭のはじめの神事であり、
粗相があってはいけないと邪魔にならないよう終始気をつけるよう心がけました。

富田町長と一緒に photo by Kurosawa
宇根地区の神部の皆さまとしげさん(町長のお母さん)と一緒に写真撮影:photo by Kurosawa
秩父神社の宮司、権宮司、禰宜、宇根地区の神部の皆さまとともに写真撮影:photo by Kurosawa

②10:00~富田家神饌田御田植祭祭典

・祝詞:豊作を願い祈願

・玉串奉奠

秩父神社から届けられた祭壇と御供えと御
玉串
神部の皆さま、とってもカッコいい!!祭典がはじまるため整列
秩父神社の宮司、権宮司、禰宜の皆さまが登場されます
祭典がはじまります

私も祭典に参加させて頂き、気づいたら宇根地区の神部の皆さんと同じ場所に整列しており、勿体なくも玉串奉奠もさせて頂きました。自分がまさか玉串をさせて頂けると思っていなく、頭が真っ白になりました。反省点も多くあるので、次回に活かすことができるよう、玉串奉奠の作法を学びたいと思いました。秩父神社の権宮司が形よりも気持ちが大切ですと言ってくださったお言葉に救われました。その後、神様に心の中で玉串奉奠の作法が上手くできなかったことをお詫びし、お気持ちをお届けしました。

③10:30~神饌田御田植祭:9名の神部の皆さまが手作業で執り行います

神部の皆さまが神饌田に向かわれます
稲を神饌田まで運びます
準備をします
御田植を開始する定位置まで移動します
稲を適当な大きさに分けます
スムーズに御田植ができるよう
スムーズに御田植作業が進むよう、稲を神饌田に投げ込みます
神部の皆さまが御田植の定位置につきます:神饌田の結界の中へ
息がぴったり
9名の神部の皆さんが横並びに同時に手作業で田植えをしていきます
真剣ですが、和やかな雰囲気

御田植の手順

手作業でまっすぐ田植ができるよう、赤〇にある道具を使用されていました。これで、まっすぐ、均等の縦幅で田植えをすることができます。長年の経験と知恵を感じました。
(1)まず、紐の線上から田植を行う
(2)次に、前後の真中(赤線)の田植を行う。1回で2列ずつ進んでいるように見えました。
黙々と手作業で田植えが行われます。ひょろっとした稲が秋にはお米を実らせるなんて・・・・
祭典を終え、御田植中に祭壇も少しずつ片付けていきます
稲が足りなくなったら、投げてと言われ、適当な大きさを投げましたが、あまり上手にはできませんでした。もちろん、神部以外は結界の中には入らないよう細心の注意をします。緊張1000%
神部の皆さんが実際に田植えをされる姿は非常に神秘的でした
手作業での御田植完了

御田植祭は、9名の神部の皆さまの息ぴったりで滞りなく、神事を終えられていました。秋に収穫された初穂は、秩父夜祭の12月2日の新穀奉献祭にて、神前にお捧げされ、その年の恵みを神様に感謝します。これからの季節を無事乗り越え、秋にはたくさんのお米を実らせますようにと祈願させて頂きました。

④12:00~富田家神饌田御田植祭無事終了

御田植祭を滞り終えた後は、神部の皆さまは白装束を脱ぎ、片付けなどされていました。その後、田植えで身体が泥だらけだったので、一度自宅に帰り、私服に着替えられ、再度、富田家に集合、その後、秩父神社の宮司、権宮司、禰宜、神部9名の方々は直会に行かれ、2024年度の富田家神饌田御田植祭は無事終了となりました。

⑤リールで動画をつくりました!facebookのアカウントがあれば見ることができます!↓

9.+αの素敵な出会い!奇跡の女子会開催

皆さんが直会に行かれるのを見送った後、黒澤さんとしげさん(町長のお母さん)と私の3人でいろいろとお話をしていました。その後、しげさんから「お昼に行きましょう」とお誘い頂きました!黒澤さんはその後予定がぎっしりと言うことで、しげさんと私だけでいくことになりました!

①しげさんとの出会い

現在、私は自身の活動でウェルビーイング通信「ぬくとまる」を毎月紙媒体で横瀬町に発信しています。2023年8月1日に第1号を発信させて頂いた時に、富田町長から「私と同じ考え方の人がいる!いつか会いたい!と自分の母親が言っている!」とお話下さいました。茶道の先生もされているということで、私もいつかお会いしたいと思っておりました。今回の御田植祭までにちょくちょくお会いする機会もありましたが、今回、じっくりとお話することができました。堅い話、真面目な話だけでなく、今まで生きてきた人生の話、女子トークもたくさんして、すごくおもしろかったです。しげさんとはこの日お友だちとなりました。私は女性に年齢を聞きませんが、教えて下さり、びっくり!!横瀬町って「年齢はただの数字」という言葉がぴったりだなと感じるほど、元気で、明るく、無邪気で、いつまでも女性として輝いていらっしゃる素敵な女性だなと感じました。御田植祭に+αのすごく素敵な1日になりました。

ウェルビーイング通信「ぬくとまる」第1号

しげさんとわたしの共通点の考え方は一体何だったのかと言うと、
「一日を一生と思って生きること」、日々を大切に、感謝することです。
しげさんは長年、お茶の先生をされており、お弟子さんもたくさんいらっしゃいます。私よりも気力、体力、覇気があり、ほぼ毎日21時ごろまでお茶のお稽古などをされており、2時に寝られるそうです!超人!(ちなみに私はごはんを食べ、20時頃から眠くなりますw)

今まで色々な人生を乗り越えられ、今尚、お茶の先生として活躍され、その中で、長年、茶室に飾る掛け軸の勉強をされてきたそうです。今回、しげさんが人生の軸として大切にされている言葉を教えて頂きました。人生辛い時、悲しい時に言葉で私も救われてきました。なので、言葉が大好きです。掛け軸は、禅語で書かれているとのことです。

・梅花雪に和して香し(かんばし)

芳賀幸四郎『新版一行物』には、「……寒気に負けず雪の白さと相映じて咲き、馥郁ふくいくと香気を放つ梅の花の凛然とした美しさをたたえたものである。(中略)そしてこの五字一句の背後には、この梅花の美しさと香しさとは、長期にわたる苦難を越え試練にたえてはじめて得られたものだと、その忍苦を礼讃する思いが隠されている。(中略)この一軸を単に早春の茶席向きの風雅な句として鑑賞するにとどめず、ここまで深く味わっていただきたいものである」とある。【梅花和雪香】

茶席の禅語選のHPより

寒さに負けず、どの花よりも早く開花し、春の訪れを教えてくれる梅の花。その美しさは、人生の苦難や試練を越え、耐え、はじめて得られるものであるという意味です。私も生きることが人生の一番の試練であると考えた時がありました。母からは子どもの時から、「人生は良いことも悪いことも全て良いことだから」と教えられてきました。最近、横瀬町の方からも「生きているのではなく、生かされているんだよ」と教えて頂きました。禅の言葉が私の心に沁みるということは、少なからず、このような経験をさせて頂き、乗り越え、今、幸せなのだなと感じさせて頂きました。こんなに短い言葉に人生が凝縮されている。言葉(言霊)はすごいパワーがあるなと感じます。

掛け軸:漢字が読めませんが気持ちで感じます

・杓底一残水

曹洞宗大本山永平寺(福井県)の正門石柱に表題の文字が刻まれた道元禅師の有名なお言葉。

禅師は毎朝仏様にお供えするお水を
門前の川から柄杓で汲み取っておられました。

そしてそのお水を、
いつも半分だけ、
その川に戻されていました。

どんなに水が豊かにあったとしても、
一滴の水も粗末にしないという禅の教えです。

さらに、その水が川のもっと先にいる人たちの
喉を潤すことができるという教えでもあります。

今、ここに生かされて
何か得たものがあるならば、
どんな小さなことでも、
それを人のために伝えていきなさい。

そして、喜びも悲しみも苦しみも
人と分かち合いなさい、
このような意味とも捉えられるのでは
ないでしょうか。

Life is so beautiful.   URL:https://ameblo.jp/wasurenagusa0906/entry-12401078059.html
このブログでの解釈が一番分かりやすく、引用させて頂きましました。

しげさんはこの杓底一残水という言葉が大好きであると教えて下さった背景には、私の人生はこの柄杓にくっついている一滴の水。もういつこの一滴が落ちるのかは分からない。だからこそ、与えられた一日、一日を精一杯生きて、人の幸せのために役立てたいとおしゃっていました。しげさんが言われた通り、自分の人生も、人の人生もいつどうなるかは分からない。だからこそ、生かされている今を大切に自分らしく生きること。私たちの考えの共通点はまさしくここなのです。言葉によって引き寄せられた出会いなんて、とてもドラマティックだなと思います。横瀬町と出会い、地域おこし協力隊として活動する中で、様々な不思議な出来事がありました。また、年齢を重ねても尚、自分のため、人の幸せのために生きる方々との出会いがたくさんあり、生かされていることに改めて感謝するとともに、人の生死の不思議さに心馳せる日々です。義理と人情、優しさと温かさのあるこの町と出会い、とても幸せです

しげさんとわたし photo by Kurosawa

10.最後に

不器用ながらにも
誠実にまっすぐ生きてきて(生かされてきて)
不思議なご縁で横瀬町の地域おこし協力隊になり
「一人ひとりの幸せとは何か?」をテーマに
活動するというちょっと変わった人が私です。
ただ、考え方はすごくシンプルです。
そして、自分のことをとても大切に、大事にしています。きっと色々なできごとを乗り越えてきた時に自分の必要な荷物(考え方)以外は
すっぱりと手放してきた
のかもしれません。

日本でも、海外でも
素晴らしい出来事、人々に恵まれてきました。

横瀬町でも同じです。
特に、武甲山関連にご縁を頂いています。
横瀬町の人々が大切にしている価値や幸せを探し求めていたらこの境地に出会いました。なんだかミラクル・・・・・
地域愛や信仰心の厚い方が多いのだと思います。

自分がこれからどんな人生を歩むのか
横瀬町に永住するのか
また他のご縁のある場所に移住するのか
自分の人生ですがまだ分かりません。

ただ、明日、もし、命が亡くなっても
後悔ない人生を歩みたい
と思います。

皆さんは、好きな人に好きと伝えていますか?
感謝の思いを言葉できちんと表現していますか?

私の今一番大切な人は
私の父と母
です。

高校時代から実家を出て
早い段階から自立した生活を送ってきました。
自由に生きること、私らしく生きること
今までも、今も応援して下さる
一番の私の味方
です。

そんな、愛する父と母に
物理的には離れていますが
たくさんの愛を送りたいと思います。

宇根地区神饌田御田植祭を通し
子々孫々と引き継がれていく
伝統に想いを馳せ
生き様を学ばせて頂けた
深い、深い、1日
でした。

やっと、やっと、記事に納めることができました。
マニアックで
独りよがりの記事かもしれませんが
この記事を読んで1人でも良いので
ほっこり心が温かくなってもらえたら嬉しい(ぬくとまる)です。

横瀬町、秩父地域にぜひ遊びに来てください。
今回も長文を読んでくださりありがとうございました!

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では、また次回まで!

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