0430読書メモ_公の時代(卯城竜太、松田修)
タイトル:『公の時代──官民による巨大プロジェクトが相次ぎ、炎上やポリコレが広がる新時代。社会にアートが拡大するにつれ埋没してゆく「アーティスト」と、その先に消えゆく「個」の居場所を、二人の美術家がラディカルに語り合う。』
著者:卯城竜太(Chim↑Pom) 、松田修
出版社:朝日出版社
出版年月:2019年9月
Amazon:https://www.amazon.co.jp/公の時代-――-卯城竜太-Chim↑Pom/dp/4255011354
感想:
元になったウェブ版美術手帖での連載はあいちトリエンナーレ2019よりも前にされていたことに驚く。勝手にあの一件を受けて発行されたものだと思っていた。それだけ、以前からあのような空気、問題意識があったということだ。起こるべくして起こった出来事だったのかもしれない。問題が顕在化しただけ儲けものだったのかもしれない。
いまの日本の空気、若者の空気に関しては頷きまくる箇所ばかり。こういうこと言えば言うほど友達が減る気がするけど、毅然として「そんな友達こちらから願い下げ」って言えるほど自分のことだけを信じきれへんし変な恥ずかしさ、後ろめたさみたいなものもまだ自分の中にある。
引用とコメント:
①松田「(前略)こういった(=アート表現をわいせつだとして行われる)検閲や自主規制は、日本人がアートをポルノと同じだと見なしているのを海外に宣伝してるようなもんだよね。しかもそんな状況は、むしろ加速している。最近ではアート関係者が「オリンピックが終わるまではセクシャルな表現に対する規制が厳しい」なんて言うのもよく耳にする。(後略)」(103頁)
②卯城「(前略)気になってくるのは、「平成」から「令和」への改元。これは椹木野衣さんと大正について話していて出てきたキーワードなんだけど、いまと大正を重ねるのなら、2019年は、あえて言うなら「令和元年」ではなく「昭和元年」なのではと。今年から何かがガラっと変わるんじゃないかと椹木さんも言ってて気になったけど、元祖昭和元年からの流れ的には・・・・・・今年から・・・・・・」
松田「つまんなくなる(笑)。2018年が大正15年てことは、「にんげんレストラン」は理想展か(笑)。本家昭和元年とリンクさせると、2020年の東京オリンピックは、戦後民主主義が花開いてた1964年の東京オリンピックではなく、むしろ1940年、つまり昭和15年に計画されていた幻の東京オリンピックと考えてもいいかもね。」(174頁)
→予言しとるやないか。AKIRAだけじゃなかった
③松田「(前略)日本ってドクメンタやってなくね?ナチス時代のドイツでは、彼ら独裁体制の思想を体現する、「ナチス芸術」と呼ばれた美術が称賛されたでしょ。これは日本でいえば。陸軍美術協会が聖戦美術展などを通じて日本軍の勇姿を喧伝していたこととパラレルだよね。ちなみに何度も悪いけど、その協会のトップだったのが藤田嗣治ね。(中略)
ナチス統治下で前衛的な芸術は「退廃芸術」とレッテルを貼られて、徹底的に弾圧された。ナチス芸術以外の近代芸術なんかは、「ドイツ人」にとってモラルの欠如した害的なものなので排除すべきだ、と。(中略)そこまでは日本と近いんだけど、ドイツでは戦後に、それら弾圧された芸術を見直す展覧会を開いたんだよね。敗戦からたったの10年後。それが、いまのアートの芸術祭の中でもっともリスペクトされていると言っていい「ドクメンタ」の第1回なわけ。つまりドクメンタってのは、戦前の黒歴史を個性に変えた芸術祭なんだよね。それに比べて日本は、戦前・戦中を文化的に総括してないって言われても仕方なくね?日本もドイツも戦中に芸術を政治利用したんだけど、戦後は、ドイツが芸術においてあらゆる政治思想を許容する態度を示したのに対して、日本は芸術から政治思想を消去しようとしたようにも見える。そんなの完全には無理なのにね。そりゃ戦前と戦後の「意識の断絶」も起こるよな、と。
その関連でいえば、日本でも瀬戸内国際芸術祭なんかが、工業汚染やハンセン病棟問題など、地域的な黒歴史を含めた芸術祭として行なわれているけど、やっぱりそのテーマをメインとして打ち出しているわけではない。工業汚染やハンセン病をメインにっていうか、戦前・戦中の弾圧とかアイヌとか朝鮮人への差別とか、日本が抱える黒歴史をメインの個性にした芸術祭がどこかひとつでもあっていいと思わない?こんだけ全国に芸術祭やビエンナーレが乱立してるんだから。」(178−179頁)
→文化面だけでなく、天皇制にしろ、議会にしろ、日本は戦後何も反省することなく2020年まできているんだね。
④卯城「(前略)各地の独特な黒歴史がタブーのままなら、現地制作で見つけるテーマもアッサリしたものになっちゃう。それに比べ、光州ビエンナーレやドクメンタに確固たる「個」性があるのは成り立ちからして当たり前。だからこそ「マスト」な芸術祭として、毎回世界中の注目を浴びるわけでしょ。日本がアートで世界に地位を築きたいなら、原発事故やアジア・太平洋戦争の黒歴史に向き合う芸術祭とか、言っちゃえばほんとに普通なことなんだけど、そういう当たり前なことを始めてブレずに育てればいいだけかもね。」
松田「「他人を傷つけない」アートを並べるだけじゃなくて、「他人を傷つけた歴史」にも目を向けるってことね。アートとしてそのクロニクルを引き受けるってだけじゃなくて、ダークツーリズム的にも学びの場として機能すると思うけどな。」
卯城「歴史であれ、多様性であれ、公共性であれ、アートがテーマにするダイアローグはつねに、「傷つけない」配慮とポリティカル・コレクトネストのせめぎ合いなんだろうけど、加害者意識ってのもアートの本質のひとつだと僕は思うよ。とはいえ、どの国もたとえば戦争の被害については盛大に博物館とか建てて残すけど、加害については微妙でしょ。日本もそうじゃん。被害でいえば広島・長崎には立派な資料館があるけど、そのレベルに相当する、自らが犯した加害について展示する博物館は日本にはない。(後略)」(180-181頁)
⑤津田大介「(前略)インディペンデントな活動は、表現の自由の幅がどんどん狭くなってきているいま、自由な「個」を確立するという点で重要度は上がっています。他方で、「公」をこのまま、石頭の事なかれ主義が横行するセクターにしておいていいのかという問題から逃げてはいけないと思うんですよ。「公」がリスクやコストを払って「個」と協働する体制をつくらなければ、美術業界はアーティストにとってどんどん息苦しい場所になるんじゃないか──そういう問題意識がありました。(後略)」(188頁)
→こういう部分、津田さんは立派だと思う。明確に言いたいのは、パブリックセクターがどういう姿勢を示していくのかというのは、個々のアーティストが自分の生存戦略を考え、その結果公的なものに頼らないことを選択する(「そうできない/やらないアーティストは知らん」的態度も含めて)のとは別の話、ということ。
⑥松田「クレームはある意味しょうがないですよね。ふだん芸術が「わからない」とか「興味がない」とか言ってる人が、作品を見て急に「これは芸術じゃない!」って怒り出すのって、個人的には必要なことだとも思う。やっぱアンタにも「芸術観」があるやんけっていう・・・・・・。」(196頁)
→それな。個人的にはそういう無自覚二枚舌なバカを心の底から軽蔑するけど、松田さんのこの寛大で開かれた態度には頭が下がる。(おそらく他の多くのアーティストが同じことを言う)見てみろよ、アートは排他的じゃないでしょう。スノッブなだけじゃないでしょう。お前の支離滅裂ささえ受け入れようとする懐の深さがあんねやで。
⑦津田「(前略)学生たちと話していて感じるのは、若い人にジャーナリズムが響かないのは、彼らがそもそも「批判する」という行為そのものが嫌だと思っている面が大きいから、ということ。いまの学生は僕らの頃とは比べものにならないくらい賢くて優秀で真面目。そして非常に寛容で多様性も認めている。でもこれは「多様性の罠」でもあるんです。彼らはLGBTQ+も同性婚も選択的夫婦別姓もOKだけど、モリカケ問題や統計改ざんも公文書隠蔽もOKなんです。厳しい言い方をすれば、自分の身に直接火の粉が降りかかってこない問題については何でもOK。でもそれって「多様性」か?っていう。(後略)」
(中略)
津田「(前略)問題なのはクリティカル・シンキングがなくなることですよ。おかしな校則であれば破っていいし、法律だっておかしければ変えられる。それこそが民主主義の本質でしょう。僕はいまの若い人にはとても期待していますけど、「多様性」と「現状追認」をごっちゃにしている若い人が多くなっている印象はありますね。」(197頁)
→おっしゃる通り。批判に嫌な顔をする。自分の周りがよければよい。よりひどいところだと、そもそも世の中のことだけじゃなく自分のことも深く考えずに生きてる人がごろごろいる。現代の若者の一人として、そういう実感がある。
⑧松田「(前略)「批判しない」っていうのは「批判されたくない」ってことの裏返しにも思える。社会の「ナイーブ化」はこれからも加速していきそうだね。それこそ「傷つく」ことにもっと過敏になるというか。(後略)」(201頁)
⑨卯城「(前略)(あいトリ2019の騒動は)ここがいよいよ日本の検閲についての議論のターニングポイントなんじゃないかな。国民的だけじゃなく世界的な議論のテーブルに乗ってるんだから。」
松田「そういう意味でいうと、「表現の不自由展・その後」の展示中止が決まった8月3日は、もはや日本の「検閲記念日」みたいな感じか(笑)。」
卯城「そうそう。ていうか、このことだったのかな、椹木さんが去年言っていた「いまと大正を重ねれば、2019年は、あえて言うなら『昭和元年』だ。その年から何かが変わるんじゃないか」って超絶ネガティブな意味の令和元年・・・・・・(笑)。でも、だとしたらなおさら、来年の8月3日にはむしろ検閲記念日1周年をやるくらい盛り上げるべきだよ。毎年やってるうちに、「今年も検閲について考える8月3日がやって来たねえ」って終戦記念日みたいな意味が出てくるかもしれない(笑)。」(216-217頁)
→ぜひ盛大に何かやってほしい。観に行くので。
⑩松田「いまの状況でただ「表現の自由を守れ」って主張し続けるだけって、ある意味「鎖国」に近いよね。守る前にそれ、そもそもまだできてないから(笑)。」(217頁)
⑪松田「(前略)美術館がコンスタントに挑戦的なことをやってきてたなら、その実践の中でノウハウも蓄積できてたわけだし。でもこの21世紀にもなって、電話やFAXといった古風な攻撃でシャットダウンしちゃうのが日本のアートの姿でしょ。だからそれは芸術祭の脆弱性のみが原因ではなくて、そのノウハウを蓄積してこなかった、つまり闘ってこなかった美術館と、「それもしょうがないよね」って呑気にやってきた日本のアート全体の脆弱性なんだと思うよ。(後略)」(220頁)
⑫卯城「(前略)日本は戦後も帰還困難区域も、復興は「新興」することで行なわれる。すると、新しい街に歴史は可視化されないから、「記憶喪失」を産むでしょ。ここ昔はなんだったっけなー、みたいな。すると必然的にその場にいても過去のことは忘れ、問題は風化する。そしてまた同じようなことが再生産される。」(247頁)
⑬卯城「てかさ、政治に民主主義がなさすぎな状況なのに、社会には民主主義がありすぎでしょ。公権力は放置したまま社会の一部が過激化して炎上し合ってるなんて。(中略)
右組と左組、アート組やフェミニスト組やLGBTQ+組、動物愛護組、表現の自由組やオタク組・・・・・・って、本当は権力に対峙すべきマイノリティ同士が、いまは原理主義化してお互いの「自由の敵」になり合ってるってのは、ムズい状況だなーと思う。(後略)」(279頁)
⑭松田「ホームレスは実際にはいるけどいないことにして生きられるし、公文書が黒塗りされて改ざんされるなんてことも、ニュースを信じなきゃいいわけだし。世の中で目を背けたくなるような事件があっても、そもそも見ようとしなけりゃいい。まさにポスト・トゥルースってやつ(笑)(後略)」(301頁)
→私の周りのめぐまれたエリートたちは無意識的にこんな感じ。自分もそうだったしいまも客観的に見ればそちら側なんだろう。でも少なくともそれカッコよくないよ、って強く言っていきたい。とはいえこの流れって、誰もが高性能なVRにアクセスできる世の中になったらより深刻になるんだろうか、しばしば聞かれるように。
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