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【連載小説】 ツインルーム (4) 母

これまでのあらすじ

 大学院生の小田切誠司は海外旅行先のロンドンで早苗と名乗る同年代の女性と知り合い行動を共にするが、早苗はリバプールで突然いなくなってしまう。その後誠司は、早苗が長年会っていない母親と関係があるのではないかという疑いを持ったまま、日本に帰国する。

 最初から読む人は下からどうぞ。

〜4〜 母

 日本に帰ってからは友達に会ってお土産を渡したり、大学院の課題をやるのに忙しかったが、母へのメールは忘れなかった。文面では特に早苗のことは書かずに観光で回った場所や現地の人の生活の様子などを書いた。

 母は繊維関係の会社の営業部門にいて、新素材のマーケッティングのため海外に良く出かける。今年の春にも上海に行って来たことは前回の母からのメールに書いてあった。その母にとって自分の短い紀行文などつまらないだろうが、しかたがない。そしてメールに、バッキンガム宮殿の前で自分のカメラをアメリカ人観光客に渡して早苗と一緒に撮ってもらったスナップショットを添付して送った。早苗が母の関係者なら、きっと反応があるはずだ。

 父によれば、母はビジネスウーマンとしてはある程度成功しているらしい。大学で英文科を専攻したので英語は得意なはずだ。一か月程度だがアメリカに語学留学の経験もあることを父から聞いたことがある。ただし、これはまだ父と結婚する前のことだ。父とは社内結婚である。結婚後、母は職場に居づらくなり、その会社をやめることを決心した。

 父は典型的な会社人間というほどでもないが、人並みに出世を目指すサラリーマンである。母が退職を決意した時、父が母に専業主婦になるように説得したかどうかは分からないが、母は同じ繊維関係の別の会社に再就職した。同じ繊維といっても扱っている繊維の種類が違うため、前の会社に嫌がれることもなく、円満退職した。

 数年後、自分が生まれた時は、6か月の産休の後、会社に戻ったらしい。自分は保育所に預けられたが、子供のころで良く覚えているのは父方の祖母と遊んだことである。たぶん、父は夜遅く帰ってきたし、母は忙しくて自分にかまっていられなかったのだろう。そして、ある日を境に、母はいなくなってしまった。それは自分が5歳の時だったらしい。

 もともと祖母が半分母親の役目をはたしていたので、自分のショックはそんなに大きくなかったらしい。しかし、だんだんと歳をとるにつれ、自分に母親がいないことの不自然さに気づくようになっていった。

 クラスメートに「お前の母親は男と逃げたんだろう」と言われ殴り合いのけんかになったこともあった。目を腫らして学校から帰ってきたので、そのころ同居していた祖母に驚かれたことを覚えている。母親がいないことでいじめられることはそれ以降も何度かあったが、幸い気の許せる友人も沢山いたので嫌な奴のいじめを忘れることができた。

 中学・高校では家庭のことなどあまり話題にならないのでいじめられることはなかったが、授業参観には父しか来ないので自分に母親がいないことをクラスメートはうすうす気づいたはずだ。

 さて、父と母はずうっと音信不通の状態にあると思いきや、成人した時、父に「どうだ、母さんに会ってみるか?」と聞かれてびっくりした。どう答えていいかわからず、「会うのは嫌だけど、メールならいい」と言ってしまった。それで母とのメール交換が数年前に始まったのだ。

 帰国後、母にメールを送った日は返事がいつ来るのか気になったが、その日うちに返事は来ず、2日ほど過ぎてから同居している父から夕食後、聞かれた。
「母さんが話したいそうだ。どうする?」
 こっちはまたメールで返事が来ると思っていただけにちょっと戸惑ったが、もし早苗のことで話があるならメールに逃げるわけにはいかないと思った。しかし、まだ直接会う気にはならなかった。
「わかった。電話ならいい」
「そうか。母さんが都合のいいときにかけるといい。だいたい9時前には仕事が終わっているはずだから」
 そう言って父は電話番号のメモを渡した。

 頭を整理することにした。母が早苗を知らない場合には、世間話をすればいい。もし彼女のバッキンガム宮殿をバックに写っている女性のことを話し始めたら、とりあえずそれが誰なのか、そしてなぜ自分に近づいたのかを聞けばいい。このとき、相手が答えを渋ってもけんか腰にならないことが大切だろう。冷静に話せばいいのだ。とはいっても、単に母と話をするだけでもかなり緊張を強いられるのに、そのうえ何かを聞きだすというのは結構しんどいことに思えた。しかし、次の日の晩、意を決して母に電話をかけた。

「はい、田坂です」
 こっちの名前を言うと、短い沈黙があった。
「私が淳子です」
頭が真っ白になって何から話していいかわからなくなった。
「えーと。父に電話しろと言われたので...」
自分で間抜けな言い訳だなと思った。母はそれには答えず、話し始めた。
「いつもメールありがとう。あなたのメール楽しみにしているの。大学や今度入った大学院のこととか、読んでいて面白い。いま、どういった研究をしているの。光ファイバーの研究していることはメールで読んだけど」
「自分のやっているのは、通信のためのではなくて、計測用の光ファイバーなんだ。たとえば化学プラントとかの工場で、光ファイバーをめぐらしておいて、何か異常な変化があった場合に監視用のコンピュータに異常を知らせるために使うんだ。まだ実用化はされていないけど、安価にモニタリングシステムを構築するための基礎研究で、指導教官の先生はゼネコンからも研究費をもらってる」
「へー。そうなの。すごいね」
「母さんのほうはどう?仕事はうまくいってるの?」
「そーね。今は何でも中国製が安くて、大概のものは負けてしまう。だから、いつも新しい素材を売らないと商売にならないの。結構大変ね。発熱する繊維とか、においを吸収する繊維とかはもう売れないわね。今売り込もうとしている素材は教えられないけど」
「ふーん」
 うまく、つなげられなくて少し沈黙。
「ねえ。食べ物では何が好きなの?バナナとかゼリーとか好きだったけれど、それはずうっと前の話だものね」
「うん。やっぱりあっさりしたものが好きかな。そばとかそうめんとかサラダとか。でも今回パリに行って、フランス料理も悪くないと思った」
「今度海外行くとしたらどこに行きたい?」
「うーん、スペインかな。旅行中知り合った日本人の中で、スペインが最高と言った人が結構いたから」
 そこでしまったと思った。まだ早苗の話はしたくなかったのだが、自分で知り合った日本人のことを持ち出してしまった。しかし、このまま過ぎてしまえば、早苗と母は関係ないことになる。また少し沈黙。そして母がついに言い始めた。
「ひとみが迷惑かけたみたいね」
「ひとみって誰?」
「あなたの隣に映っていた子よ」
 いきなり核心に到達して、俺は面食らった。

(つづく)


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