人格形成に関わった出来事のアウトプット①

初めてのnoteです。

なぜいきなりこんなことを始めたのかというと、仕事を始めて3年が経とうとしており、周りと比較すると「自分の気持ちや意見を言葉に出して伝えることが苦手」とひしひしと感じるようになったからです。

皆さんも、なぜ自分は他の人よりこういうことができないのだろうと歯がゆい思いをしたことがあると思います。

まさに今その状況です。

最近ではツイッターに慣れてしまったことで、短文で簡潔に何かを表現するということは出来るようになりましたが、その分自分の気持ちの言葉数や感受性も乏しくなった気がしたのです。

そもそも自分は人に自らの気持ちを話すことがほとんどありません。家族にも話したがらなかったのだから根深いものを感じます。それが原因だと自負もしています。それを少しでも改善しようと思って筆をとることにしました。

しかし思い返せば自分は最初からそんな人間ではなかったような気もするのです。

今の私になるまでの道筋を、私の人生の拠り所であるアーティストの助けを得ながら整理してみようと思います。

浜田省吾による人生観の形成

浜田省吾というアーティストをご存知だろうか?

以下ウィキペディアから引用すると

デビュー時からサングラスがトレードマーク。メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後の数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、プロテスト色の強いアーティストである。また、「ロック=英語」という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。

物心ついた時にはカーステレオから流れてくる浜田省吾の曲を口ずさんで育ったのが私だ。歌詞の意味を理解できるようになったのは小学校3年生頃であったと思う。

ちなみに初めて好きになった曲はMONEYだ。歌詞の意味を知らずにこの歌を選んだあたり自分の人となりがロクでもないことがよくわかる。
https://www.youtube.com/watch?v=tHjFsTsEb0I&feature=share

母曰く、自分は母のお腹にいる時からこの浜田省吾の曲を聴いて過ごしてきたようなので生まれながらの浜田省吾ファンと言える。

もともと父と母が好きで、思いっきり刷り込みが成功した例だ。余談だが妹も立派なハマショーファンである。一家揃ってハマショーファンの家庭で育ったわけだ。

さて、その人格形成に多大な影響を及ぼした浜田省吾の世界観。はっきり言って物凄く重い。

被爆2世として、社会情勢や人々の心の貧しさを危惧する歌や、決して相容れない別々の生き物として捉えた男と女の営みの歌など。重すぎる、うん。

浜田省吾は歌詞を書くのが苦手だと度々言う。それもそのはず、1つ1つの言葉やフレーズ、例えの情報量が多すぎてとても簡単に書けるような歌詞ではないのだ。ただひたすら愛の言葉を囁くだけの幸せな歌とかがほとんどない。

仕事終わりのベルにとらわれの心と体取り返す 夕暮れ時
家路たどる人波 おれはネクタイほどき時に理由もなく叫びたくなる 怒りに

出典:J.BOY 作詞作曲:浜田省吾

愛を誓った白い教会の鐘の音 今でも
聞こえるのに僕のために作った食事は
さめてゆき 君は無口になり君のために創った 愛の歌の歌詞さえ今はもう僕には 思い出せない

出典:いつわりの日々 作詞作曲:浜田省吾

さて、そんな歌を聴いて育った私はどんな考えを持つようになったのか。

・よくわからないけどこの世には色んな人がいる

・人は過ちを重ねながら必死で生きてる。

・自分1人の力じゃどうしようもならないことがたくさんある。

・1人1人孤独だからこそ助け合うのが特別

っていう短い短い人生に全く合わない妙に達観した価値観が形成されたのだ。

そんなことを無意識のうちに刷り込まれた私は自分の意思か、周りの流れからかわからないが1人でいる時間がとても多かった。1人でいるのが苦痛ではなかったのだ。

一番古い記憶で幼稚園の年中の頃には1人でラジカセを操作して踊る💃という1人遊びに勤しんでいた。あの頃の自分は楽しかったがなんとも悲しい幼少期である。たまに友達とままごともしていたけど、そんな遊びも自然としていた。

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