海のふた よしもとばなな著
長い長い梅雨が明けたとたん、連日の猛暑が始まった8月の初め。
ようやく始まった夏を楽しみたい!沖縄の大宜味村産のシークワーサーの炭酸水割を飲みながら、そういえば、大好きな吉本ばななさんの著作に、西伊豆でかき氷屋を開いた女性のひと夏の物語があったはずと思い出した。
確か初版で買って、一読してそのまま仕舞い込んでいるはず。
馴染み深い伊豆を舞台にした切ないような物語をもっと読みたい。「つぐみ」をイメージして読み始めたせいか、つまらなく感じた16年前。
これはつまらない本、と開くことはなかった。
けれど大好きなばななさんの本。きっと何処かに仕舞ったはず。自室の本棚、別室の本棚、息子の部屋、応接室の本棚…探したけれど見つからなくて。もしや誤って古本に出してしまったのかも。
屋根裏の段ボール箱を思い出したけれど、この暑い中入り込み探す気力がなく、図書館へと出かけ、タイミングよく借りることが出来た。
16年前、つまらなく感じた自分が信じられない。笑
やはり始まりから心をわしづかみ。
キジムナーとかケンムンとかなまはげとか、遠い外国のホピ族のマサウも…人のいるところに近いところにいる神様たちは、みんな恐ろしい外見をしているみたいだ。
ぎらぎらした目だとか、牙だとか、赤い色の体だとか、武器を持っているとか。
それは、きっと身を守るためでもあるけれど、なによりも、人の心を試すためなのだろう。その見た目をのりこえてきたものだけが、その繊細な魂の力に触れることができるから。
西伊豆の、たぶんあの町が舞台の、二人の女性のひと夏のこと。
Uターンしてかき氷屋をはじめた”まり”と、大好きなおばあさんが亡くなって親戚争いに疲れ静養にやって来た”はじめちゃん”。
全然タイプの違う2人が知り合い、日常を共にしながら関係を育み、ふたりの魂が成長していく。
その様を読んでいるうち、生きることに丁寧になろう、という思いが強く湧き上がってきた。
丁寧に生きるといっても、ピザを生地から作ったり梅仕事することじゃなくて、そんなことも含まれると思うけれど、友達や家族を含めた人との関係や、仕事、毎日の過ごし方など、あらゆる自分の行いを、どんな意識や想いを根っこにするのか、行なっていくのか、おざなりにせず、静かに向き合っていくこと。
なあなあにせず、流されすぎず。周りの人や事に誠実に向き合うことは、自分自身と誠実に向き合い、大切にすることなんだ。”まり”と”はじめちゃん”からそんな風に受け取った。
はじめちゃんは小さい頃におったやけどで、体や顔の右半分がまだらに真っ黒になっている。まりは驚くけれど
ああなるほど、この人はもうこのままの人なんだ、たまたまこういう形なんだ、蟻が蟻なように、魚が魚であるように。
この想い、すごくよく分かる。
大好きな友人に、もと男性だったという人がいて、それを彼女の親しい人から聞いた時、「あーやっぱりな。そうなんだ、ふーん」と思った。何となくそんな感じはしていて、でもだからと言って何なのだろう?
元男性でも女性でも、わたしは彼女という存在が好きなのだ。見た目じゃない。属しているものでもない。彼女という魂そのものを。
はじめちゃんには恋人がいるが、このやけどのあとがあるから、好きなんじゃないかって思っている。それに対してこう言うまりがとっても好き。
なーんだ、それはそうでしょう、私にはわかるよ。
だって、フルートのすごくうまい人がそれで人をひきつけるように、手先がすごく器用な人がもてるように、巨乳が人気あるように、そこがはじめちゃんのよさをひきたててるんだもん、仕方ないよ。
そして、はじめちゃんは亡くなった大好きなおばあちゃんをしょっちゅう思い出している。それを感じたまりの思い。
はじめちゃんには、この海も夕空も砂浜も遠くの明かりも、とても自然な形で、みんなおばあちゃんの面影に感じられているのだろう。亡くなったことで、それから後は目に映る全てにおばあちゃんが宿った、そういう感じがした。
この感じもわかる。この春亡くなった父、父という肉体を持った人間は居なくなったけれど、庭木に水やりをしている時も、料理をしているときも、とある駅に降り立ったときも、父の面影を感じられる。
肉体は無くなったけれど、父はこの世界に行き渡って存在している、そんな感じがするのだ。
まりの母親もいい。人の悪口を言わない。意地悪もすれば欲もあるけれど、こんなことを子供に言える母親っていい。
人はみんな痛い思いや怖い思いをしたくない、幸せを感じたい、そういうものだから。
だから誰かがそういうふうになりそうなことには、決して手を貸してはいけない。
他にも、好きだった文章。
これからここがどうなっていくか知らない。私はここの大地をなでるような気持ちで、毎日この足で歩き回っている。小さな愛が刻まれた場所は、やがて花が咲く道になるからだ。
だからこそ、大したことができると思ってはいけないのだ、と思えることこそが好きだった。私のできることは、私の小さな花壇をよく世話して花で満たしておくことができるという程度のことだ。わたしの思想で世界を変えることなんかじゃない。ただ生まれて死んでいくまでの間を、気持ちよく、おてんとうさまに恥ずかしくなく、石の裏にも、木の陰にも宿っている精霊たちの言葉を聞くことができるような自分でいること。この世が作った美しいものを、まっすぐな目で見つめたまま、目をそらすようなことに手を染めず、死ぬことができるように暮らすだけのこと。
それは不可能ではない。だって、人間はそういうふうにつくられてこの世にやってきたのだから。
吉本ばななさんの著作はどれも、読み始めた時から心を掴まれる。
ああ、これは大切に味わって読みたい宝ものだ。
いつもそう思う。
「海のふた」もそうだった。16年前のわたしは若くて、この物語の深みを感じることが出来なかったのだろう。この年齢になってもまだまだ未熟だけれど、わたしなりに色々な経験を重ね、様々な思いを積み重ねてきて、この物語の世界に入り込めるようになったのかも知れない。
この本は再び買うことにしました。
どうもありがとうございます! 感謝感激、雨あられ♡