あの日の私とあの景色。
こんばんは、りおてです。
画像は、光と大気の描写の詩情的技術力から「絵画の魔術」と称えられたフランスの画家、クロード・ジョセフ・ヴェルネの《ヴェスヴィオ山の見えるナポリの眺め》です。ルーブル美術館で撮影しました。本記事とは一切関係ありません。
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昨日の夜、ふと思い立って、kiroroのアルバムをiTunesで購入した。ピコンと音が鳴って、ダウンロードされていく曲たち。どのタイトルも、懐かしい顔ぶれだ。
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中学校へ上がった時、校則の厳しい全寮制の学校で、私たちに許されていた娯楽といえば音楽ぐらいのものだった。まだiPodが出るか出ないかの頃で、私は母にカセット式のMDプレイヤーを買ってもらったのを覚えている。それまで音楽を聴く習慣のなかった私は、慣れ親しんだアニメの歌や母から教わった歌謡曲をMDに落とし、数枚学校へと持ち帰った。
それは半年に一度の寮替えの日だったと思う。部屋の大掃除をしている時に、押し入れの屋根裏から、ひとつの段ボール箱を見つけた。中には、箱いっぱいに詰まったルーズリーフとノート、それから1枚のMDが入っていた。いつかの住人が隠したまま忘れて行ったのだろう。悪いと思いつつもノートを捲ると、中には沢山のイラストが描いてあった。今思えば拙い絵だったが、当時同じようにイラストを描いていた私よりは上手で、これはきっと数年上の先輩が残していったものだろうなとぼんやり思った。俄然その人物に興味が湧いてきた私は、紙束の上に乗せられていたMDを、自分のプレイヤーへと挿し込んだ。
流れてきたのは、音楽に疎い私でも、どこかで聴いたことのあるメロディ。kiroroの『Best Friend』だった。
一曲聴いて、プレイヤーからMDを抜く。よく見るとカセットの側面に手書きで、『kiroro ベストアルバム』と書いてある。私はなるほど、と合点し、少し逡巡した後、その箱の中身を頂戴することにした。(寮内の暗黙のルールとして、直前の住人の忘れ物以外は持ち主を辿れないので、現住人の自由に処分してよいことになっていた)
それから私は、通学の行きと帰りのバスの中、そのMDを聴くのが日課になった。
スカイラインを通るバスの少し高い座席からは、青く茂る峰々を従えた雄大な空、そして、そこから一条の光が眼下に広がる海に差す様子、水面に反射して燦めく光の粒が白く散り散りになっていくのが見える。たった15分のバスの旅で、今日はどの曲を聴くのか、決めるのが楽しかった。私とkiroroの曲は、そんな景色の思い出と共に、結びついている。
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自室のベッドの上、パソコンの明かりが顔を照らす。電子音が再び鳴り、私にダウンロードの終了を告げる。再生ボタンを押すと、慣れ親しんだ『Best Friend』が流れ出し、あの景色が目に浮かぶ。あの山はまだ青く茂っているだろうか。あの空はまだ高く澄んでいるだろうか。あの海はまだ深く満ちているだろうか。あの光はまだ燦々と輝き続けているだろうか。
私は目を閉じて、バスの揺れに身を任せる。
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気づけば眠っていた私は、窓から差し込む昼の光で目を覚ました。眩しい。パソコンからはまだ音楽が流れ続けている。今の曲は『最後のKiss』。夏にぴったりの曲だ。リピート再生になっている音楽はそのままにして、ベッドから身を起こす。一昨日這々の体で片付けた部屋はまだ綺麗なままで、なんとなくやる気が出たので、洗濯機を回すことにした。洗濯物を放り込んで、スイッチを押す。洗剤と柔軟剤を注いで、蓋を閉める。振り返って洗面台に向かい、歯磨きをして顔を洗う。流れるような一連の動作。寝室に帰ってくる頃には、曲は『3人の写真』に変わっていた。ベッドの縁に腰かけて、高校3年の頃に連んでいた後輩たちのことを思い出す。この曲のように、いつも3人一緒だった。あの頃は毎日楽しかったなぁ。彼らも、私と同じに楽しかっただろうか。
そんな思い出を脳裏に描きながら、身支度をする。買い物に行かないと食べるものがない。ついでにティッシュも買わないと。服を着替えて鞄を肩にかけ、イヤホンを耳に挿し、家を出る。マンションの一階に辿り着いたエレベーターのドアが開くと、途端にむっとする梅雨の空気が押し寄せてきて、思わず顔をしかめた。
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買い物から帰る道すがら、耳元で流れる曲に引きずられて、脳が勝手に昔の思い出を色々と引っ張り出してくる。そしてどの思い出も大抵、あのバスの窓から、あの景色を眺める映像に収束してゆく。辛い時も悲しい時も、嬉しいことがあった日も、私はいつでも毎日、あの景色を眺めていた。晴れていても曇っていても、それこそ嵐の日だって、あの景色だけがいつでも、孤独な私を受け入れてくれた。
そんなことを考えながら帰宅すると、イヤホンを外してスピーカーに設定を切り替え、買ってきたものを片付ける。ベッドの上のスマホから音楽が流れて部屋を満たし、思わず鼻歌がこぼれる。『ひとつぶの涙』が終わり、『愛さない』へと移行する頃、私は片付けを終えて、再びベッドの縁に座る。洗濯機が回る音を背景に聞きながら、その曲を小さく口ずさんだ。もう10年以上前のことだけれど、身体は意外と覚えているもので、歌詞を見なくてもすらすらと歌えた。
愛さない 愛せないのよ 別々の道を歩き始めた
憎まない 憎めないのよ 一度は愛した人だから
Kissの仕方も温度も覚えているけど
声を殺して泣くことに慣れてしまったみたい
もっともっとこの手で もっともっと愛を
もっともっとあなたに触れていたかった
歌っているうちに、私は自分の頬に涙が伝うのを感じる。ああ、10数年越しに、この曲は“私の曲”になったんだ。唐突にそう感じた。
数ヶ月前に恋人に裏切られた私。愛した人に浮気されて捨てられて、それでも彼を憎めない私の心を、その曲はまるで予言するかのように、中学生の私に歌ってくれていたのに。そして心の中で、あの日のバスの中の自分に向けて呟く。「ごめんね」。
ごめんね、私はまだ孤独で、まだ愚かな恋をしているよ。美しい景色に恋するように、誰かを愛することを学んで、少しは前に進めた気がしたけれど、私の心はまだ、あの日のバスの中に取り残されているよ。あの日の君は泣くだろうか。それともわかっていたよと笑うだろうか。どうか過ぎてゆく日々を、その窓から見える景色とともに過ごしておくれ。どうか未来の私に、一秒でも多く、その景色の記憶を残しておくれ。どうか、どうか。
私は水滴のついた眼鏡を外し、滲んだ視界でスマホを掴む。音楽を止めて、noteを開く。この気持ちを残しておこう。あの日の景色の美しさとともに。あなたを愛した気持ちとともに。
どうか、あの日の私が、あの景色を見逃すことのないように。