それを「ゆたか」と表現したあなたへ。
こんばんは、りおてです。
画像は、ロレンツォ・ディ・クレディの《聖母子と聖ジョバンニーノ、2人の天使》です。ウフィツィで撮影しました。本記事とは一切関係ありません。
企画へのすべりこみに失敗しましたので、供養のためにここに置いておきます。
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本当は、この企画に応募するつもりはなかった。私はまだnoteを初めて間もないし、箸にも棒にもかからない文章しか書けないだろうと思った。広く誰かに見られる文章を書ける自信が、まだなかった。でも、今日とある方の文章を目にして、やっぱり、私も「ゆたかさ」について書いてみようと思った。私も、私の目指す「ゆたかさ」について、自由に書いていいのかなって、少し思えたから。
だからこれは、“私のため”の、一点物の文章。
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「それでも私は、多くの度量衡、ものさしが存在する世界の方が、生き易く、美しく、豊かであると考えます」
これは2020年1月に放送された、『宝石商リチャード氏の謎鑑定』第2話の最後、主役の1人である宝石商リチャード・ラナシンハ・トヴルピアンの台詞だ。
私はこの台詞を聞いた時、泣いた。どんな修飾語で飾ることもしない。ただただ、涙を流した。
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私は普段、起きている時間は大抵、Twitterに常駐している。無職をいいことに、アニメを観ながら、ゲームをしながら、Twitterを眺めるのが日課だ。
私のタイムラインには、フェミニズムや差別の話題が多く登場する。私はフェミニストを自称していないが、私のタイムラインを見た人は、恐らくフェミニストのそれ、あるいはリベラリストのそれだと思うことだろう。
大学生の中頃、何がきっかけだったかは忘れたけれど、私はこの21世紀の世の中に、歴然として差別があると気づいた。それと同時に、私の過ごしてきた家庭の問題や、これまで受けてきた扱いの根幹に、差別があることを知った。全てが氷解するような、さめざめとした驚きだった。
私の家では、義父が母に経済的DVやモラルハラスメントを働き、私に性的虐待を繰り返してきた。そこには、厳然たる性差別がある。
私の祖母は台湾人で、私自身もいわゆるクオーターだ。祖母は幼少から日本に住んでいるのに年金を貰えないし、私は目や髪が少し茶色いからと、学校では何度も頭髪指導を受けた。そこには瞭然たる外国人差別がある。
だから、私が差別に憤るのは、他の人より容易だった。
でも、日本で暮らす普通の人々にとって、それは案外難しいと、私は少しずつ知ることになる。
勉強を続けるうちに、差別はあらゆるところに存在すると学んだ。
家庭内、学校、職場、電車の中や図書館、街の雑踏。現実の世界だけではない。小説や漫画、テレビやアニメ、フィクションの世界にも、現実と地続きの差別が存在している。
でも、だからこそ、人は差別に気づきにくいこともわかった。指摘されても、それが差別だと認識できない。だって差別は、あまりに「当たり前」に、そこにあるから。
“常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう”と言ったのはアインシュタインだったか。人は、「当たり前」にそこにあるものを、疑うことが難しい生き物なのだ。
私は、いつも考えていた。
私が、「それは差別だよ」と指摘しても笑って流してしまう友達を前に。
私が、「差別というのはこういうものだよ」と説明しても、うんざりした顔をする恋人を前に。
間違っているのは、私なのだろうか、と。
差別のない世界を望むのは間違いで、正義があると信じるのはいけないことなのだろうか、と。
私はいわゆるオタクで、昔からアニメが好きだ。でも、差別問題について勉強し始めてから、観られない作品がぐんと増えた。
差別的な描写があると、うっ、となってしまって観ることができない。そんな生き方苦しくないの?と、よく聞かれる。苦しいよ、勿論。だってアニメ、好きだもん。好きな監督の作品を嫌いになったり、好きな作画なのに観られなかったり、ストーリーは好みなのに没入できなかったり。そんなの嫌に決まってる。
でもね、一度知ってしまったことから、目を背けることはできない。
私は、正義はあるって、信じたい。
だから、『宝石商リチャード氏の謎鑑定』に出会った時、私は感動に打ち震えた。
「人種、宗教、性的志向、国籍、その他あらゆるものに基づく偏見を持たず、差別的発言をしない」
そんなことを明言してくれるアニメが、いまだかつてあっただろうか。
これこそ、2020年、令和のアニメだ、と思った。
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『宝石商リチャード氏の謎鑑定』の第2話は、「普通であれという社会」と「普通でない自分」との間で葛藤する、1人のレズビアン女性を中心にお話が展開する。
結婚を求める男性を前に、「砂漠で家庭菜園をするのはもう嫌」と言う彼女。彼女にとって、偏見と差別に溢れた社会で、“普通”に生きることは、「砂漠で家庭菜園をする」のと同じくらい、辛く、苦しいものだった。
物語の最後、彼女は男性から貰ったルビーのブローチを返すことを決め、「普通ではない」自分と向き合って生きることを決める。
そして物語は、冒頭のリチャード氏の台詞へと繋がる。
「それでも私は、多くの度量衡、ものさしが存在する世界の方が、生き易く、美しく、ゆたかであると考えます」
彼があまりにも当たり前にその言葉を口にするものだから、私はただ、泣くことしかできなかった。
私は正義を信じていいんだ。多様であることは「ゆたか」であること。私はそれを目指していいんだ。それを肯定してもらえた気がして、私はただ静かに、涙を流すことしかできなかった。
人は「ゆたかさ」を求めて進化と発展を繰り返してきた生き物だ。
だからいつかこの世界も、差別と偏見のない「ゆたか」な世界に、進化できると信じている。
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感情まかせに書いたから、しっちゃかめっちゃかになったけれど、これで筆を置きます。
これを書かせてくれた、はつかさんの文章に、敬意を込めて。