ていねいばかりでは暮らしは回らないから
ていねいってとても耳触りがいい言葉です。
充実感に満たされ心豊かに暮らしているイメージでしょうか。
でも、ていねいって手間と時間がかかります。言葉の響きに誘われるがまま身の回りのことすべてに労力と時間をかけていては、暮らしは回らなくなってしまいます。
全てをていねいに暮らすことは難しいとすると、何をていねいにしたらいいのか選び取るために大切なのは、ていねいにしたいことが自分にとって好きなことかどうかなのかもしれません。
せっかく時間をかけるのであれば、心が喜び充実感が得られることをしたいのです。ていねいな時間を過ごしたあとに体に残るほかほかした心のあたたかさは、すきな時間を思いっきり堪能したその結果得られる、心の落ち着きや多幸感ではないでしょうか。
「どうしても好き」「これをしている時に幸せを感じる」といった心の動きに素直に向き合って自分がその時間を堪能しとことん楽しむ、そんなていねいの考え方があってもいいのではないかと思うのです。
私は、機械に頼らず手を動かすことを基本として時間をかけて一つずつ動作を重ねていくことが、ていねいなのだ思っていました。時間がかかるし効率的とは言えないものもあるのでなかなか習慣にならないし、その時間を終えたとてウキウキした気持ちとは遠いところに心が向かっていると感じる。
そんなとき、ていねいだと信じていたことが自分にとって好きなことなのかどうか立ち止まってもう一度考えてみると、意外にもそこまでその時間を楽しんでいるわけではないかもしれないと確認できることがあります。
義務感、タスク、そんな気持ちで時間をかけていると、予定通りに終わらないことに苛立つという、本末転倒極まりない状態になっていたこともあります。
私の暮らしの中には、好きなことにとことん浸かってていねいに過ごす中で癒されている時間とていねいだと思い込んで手間をかけていただけの時間が混在していたことに気が付きました。
そこで、何にていねいに向き合うか一度考えてみた私が、手放したていねい(だと思っていたこと)とこれからも大切にしていきたいていねいについて少しお話したいと思います。
手放したこと「箒掃除=ていねい」
以前は皆が寝静まってから洗濯物を干してさらに箒がけをしていました。寝る前のリセットは翌日の家事貯金になりますが、目に余る大きなごみだけゴミ箱へ、その後の箒時間はやめることにしました。
そういえば末っ子が赤ん坊のころ、大きい音をたてないようにと始めたのが箒掃除のきっかけでした。何となく、でもしっかり縛られていた、箒×夜=ていねいという勝手な方程式。今は毎朝子ども達が出かけてから掃除機をかけ、今の季節であれば木の実を主食としているといってもいい末っ子が食べ散らかす栗のような独特の小さい固形物には箒が適任です。さっと取り出せる身軽さはやっぱり箒ならでは。箒がけがルーティンから外れても、奥ゆかしく凛とした佇まいをもつ箒に向ける愛情は健在です。
ていねいでありたいこと① 「器づかい」
たくさん持っているわけでもなければ、ミニマリストさんのように少数精鋭というわけでもありません。死蔵させないことをルールに敷いて購入している食器たちにはそれぞれの思い入れとスキが詰まっています。私の場合、器との時間を楽しむために料理をしているといってもいいくらい。
食事前にはお盆の上に小皿を並べて今日の完成図をイメージしたり、器に乗せたときの彩りを考えて葉野菜の料理を一品追加したり、わりと器ありきの料理計画を立てているかもしれません。
ていねいでありたいこと② 「季節のちょっとした手づくり」
毎年季節に応じて小さな手作りを楽しんでいます。春はよもぎオイルやよもぎもち作り、夏は梅干しづくりや庭の極狭畑でミニトマトづくり、秋には干しいも、干し柿、冬は焼き芋。買うことができるものを少しだけ手間をかけて自分で作り出せる達成感と、手作りの味わい深さが好きで毎年こつこつと続けています。柿なんて一度につぼけ(背にしょって山菜とか放り入れる竹籠)5個分くらいの収穫量だから、皮をむいて外に吊るす作業に寝不足確定の印を押されつつ、手を動かして自分でつくりだせるものがあるんだと分かるこの時間は心の安定につながるし、無心で作業する集中力は瞑想に近いものを感じます。
食べ物のほかにも食器洗い用のたわしを毛糸で作ることにしています。ちょっとした手作りにもあたたかみがあって、好きな時好きな大きさで生み出せる自由さ、柔軟さが好きなんです。
皆さんが好きでじっくり味わい楽しんでいるていねいは何でしょうか。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
いつも、スキを押してくださりありがとうございます。
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