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その世界、誰のもの? ~『世界征服やめた』鑑賞レポート~
⚠️このnoteには2月7日公開『世界征服やめた』に関するネタバレが多分に含まれております。ご覧になられる予定の方は閲覧をお控えください。⚠️
皆さんこんにちわこんばんわ、週に1日のみのお休みの日は大体アクティブに動き回るkamuiです。
今日も今日とてイノベ連食部。
— kamui+🦦🍊👻 (@rhythm_kamukamu) February 9, 2025
しおくぁーさー油そば無いと思ってたから🉐すぎた、塩も行けるな( ˙꒳˙ )👍
そして濃厚大葉、何も語ることないね pic.twitter.com/eFiUdqNCBu
(限定マジで外さないんよな、いつもほんとありがとう)
ふとしたタイミングで心に響く作品に出会える事ってありますよね、今日がそんな日でした。
ということで今回は『世界征服やめた』という映画についてつらつらと語っていきます。
作品概要について
この作品は俳優であり、DISH//のメインボーカル兼ベースの北村匠海が企画・脚本・監督をした作品で、不可思議/wonderboyというポエトリーラッパーがリリースしている同タイトルの楽曲『世界征服やめた』に着想を得て制作されています。
見ると決めたのが公演開始2時間前とかだったので、インスパイアされていることは知っていながらも敢えて楽曲は聴かないで臨みました。(エンドロール間際で流れました)
作中でこの歌詞(台詞)を引用している部分があるのですが、当たらずも遠からずといった印象を受けました。
主人公はどちらかと言うともっと社会に対して希望が見出せない五里霧中のような、もっと暗く陰鬱な心理状況に置かれていると感じました。
それでも様々な面を踏まえてみると最終的には曲に沿った内容だったという納得感がありました。その点も含めてトピック毎に語っていきます。
ここからはあくまで僕個人の考察となるので物語の本筋と異なる可能性もあります。鑑賞済みの方に関しましてはあらかじめご了承ください。
二面性がもたらす恩恵と弊害
あらすじとしては会社の同僚の正反対な存在という関係性でしたが、僕は「主人公のそのままの人間(主人公自身)」と「主人公の心の奥底にある、主人公自身はなれないけども憧れを抱かずにはいられない人間(快活に語りかけてくる同僚)」という関係性で見ていました。
そんな非現実的な状況だからこそ、冒頭の主人公の世界は周囲の時間が止まっていた、2人(1人)だけの世界として進んでいたのではないかと思いました。(居酒屋のシーンでは時間が動いていたため若干この考察とずれてしまいますが、そこに関しても後々のトピックで掘り下げていきます。)
という訳で本稿では「同僚は主人公の二面性を投影した存在」として話を進めていきます。
同僚の出番がある場面、また同僚が主人公の深層心理に深く腰を据えている期間(同僚に「俺は明日死ぬ」と伝えられ、主人公が早朝に目が覚め何かに駆り立てられたかのように走り出す辺りまで)は、主人公は「自分の世界なのに自分が主人公ではないような時間」を過ごしていました。
起きて、会社に行き、帰ってきて寝る…その繰り返し。会社では洗脳に自我をコントロールされることもなく、困った際に他の社員から手伝ってもらえることなどもない。彼らは何があってもただ自分のそばを過ぎていくだけ。そんな人生は「楽しいも苦しいもない、何もない人生だ」と主人公は同僚に対して吐き捨てています。
しかし彼の中にある存在しないもう1人の自分である同僚が、そんな彼の些細な刺激であったのです。毎朝一緒に出勤しては、元気がない、生気がない彼を元気付けようと小学生がやるような遊びを提案したり奮い立たせるように声をかけています。
一見すると同僚の存在は主人公にとって煩わしい存在であったものの、同時に自分の生活に色を添えてくれる存在なのだと思います。
しかし同僚が主人公の中にいる、同僚と一緒に過ごしている主人公の人生は一向に好転しません。自分(たち)以外の時間が止まってしまったり、首吊り用のロープが自室の天井に吊り下げられていておあつらえ向きの椅子まである状況は明らかに異常としか言えません。
同僚と時間を共にする人生は、言わばその場しのぎのような、茹でガエルのような状態だと考えます。
対処療法的に精神的に安らぎを与えてくれるものの根本の問題は解決しない、徐々に人生を蝕んでいき最終的には自分の世界が崩壊してしまうのです。
「明日死ぬ」とは
そんなどん詰まりな人生を送っていた所で、居酒屋での転機が訪れます。同僚が「明日俺は死ぬ」と言い放ち、翌日から本当に彼の元に一切姿を見せなくなってしまうのです。
最初は煩わしい存在が居なくなって主人公も清々するかと思いきや、その告白を聞き入れた居酒屋で寝落ちしてしまうなど明らかに今までは起こらなかった異変が次々と彼を襲うのです。
居酒屋で寝落ちしたことは、首吊りに失敗しても何事もなくいつもの時間に覚醒して何事もなかったように出勤する「完全に会社に物言わぬ歯車となっていた彼」からは想像できない出来事でした。
それ以外にも、ふと明朝に目覚めたかと思えば同僚の姿を探して彼と一緒に言葉を交わしたいつもの道を探し走り彷徨う様子も、明らかに煩わしいと思っていた存在を無くした時の行動・反応とは言えないですよね。
(これはその異変に該当するか怪しいですが、同僚と出勤していると思ったら何故か夜だったという場面もありましたよね。ここから既に現状の世界の崩壊が始まっていたのかもしれませんね。)
同僚の「明日死ぬ」という告白に普段は見せない動揺を示した通りではありますが、主人公にとって同僚が自分の中から居なくなるということは自分が思っている以上に自己の従来のアイデンティティの崩壊を引き起こす出来事だったのです。
しかし転機と表現したように、この出来事は主人公にとっては今後生きていく上で必要不可欠であったのだと考えています。
前述の「同僚がいる世界なのに時が動いていたこと」に関しては、現状のぬるま湯のような世界の崩壊をその時すでに予見させるための舞台装置として敢えて時間を動かしていたのだと分析しています。今までは明確に否定したりせず軽くあしらっていた主人公が、初めて明確に同僚を否定している所などもその兆候だったと思います。
征服する、時が動き出す
同僚を失った、自分の中の陽の要素が消失した直後こそ主人公は苦しんだものの、それからの彼の人生は一気に好転していきました。
そこが物語の本筋ではないため深くは言及されていませんが、天気予報にて「曇り」の予報から「晴れ」の予報に同僚の消失の前後で変化したことは直接的なメタファーになっていると思います。
またいつもの通勤ルートの様子について、冒頭は止まっていた他人の世界が自分の世界と同期され時間を共にし始めていることも本来あるべき世界が取り戻されたことを示していると思います。
タイトルにも用いられている「世界征服」という表現は、同僚の独白通りであれば「自分中心に世界を回す」ということなのだと思います。しかし僕は「自分を他人の世界に同期する」ということが主人公の思う征服に該当すると思います。
家庭を持っていたり大多数の人間の将来や生殺与奪の権利を握っていたりといった一部の人間を除いて、人間は基本自分のことを考えていても、自分本位に生きても何とかなってしまいます。それは冒頭の主人公のような消極的な方向性もそうですし、同僚の言うような積極的(アグレッシブ)な方向性もそうだと考えられます。
しかしそれでは他人という存在に蔑ろにされてしまい「楽しくもない、苦しくもない、何もない」人生となってしまうのだと思います。極度に人間の顰蹙を買ったり、関わりを持とうと思ってもらえない空気のような存在となるかのどちらかなのだから当然です。
人間は1人では生きていけない存在です。究極的には誰かと繋がりを持たないと人間としての形を保てなくなってしまうのだから。
そんな状況へと人間を追いやってしまう「征服」ではなく、自己を主張しつつ他人とも時間を共にする努力をしようとする、人間をあるべき姿にしてくれる「征服」を主人公は成し遂げたのだと思います。
冒頭の主人公のように焦がれるものの実現できないからといって逃げ続ける世界も自分の世界かもしれません。しかしその世界の主人公は誰なんでしょうか?そもそもその世界に主人公はいるのでしょうか?
主人公不在の世界なんて、その世界を支える存在がいない状況なんて、崩壊の結末しかないと思います。
そうならないためにも主人公は、いつかの私の理想のように見えた同僚を「征服」して本来思い描いていた「世界征服をやめた」のです。
余談:同僚の独白について
会社の屋上で同僚が現状の社会やルールに対する鬱憤を思い思いにぶちまけるシーン。楽観的な同僚も、言ってしまえば主人公の陰の影響をダイレクトに共有していた存在として思うところがあったのだと思います。
最終的に主人公は同僚を自分の中から「征服」できたわけですが、それには同僚自身が
「征服されたい」と思う気持ちも助力していたのではないかと考えられます。
主人公からすると腫れ物扱いだった同僚、彼自身も現状から抜け出したい、救いを求めていた節があったのだと思います。行き着いた先には何があるか分かりませんが、2人(1人)にとってこの結末はきっと最適解だったはずです。
おわりに
他のレビュアーさんのコメントでも言及されていましたが、約50分という枠の中で簡素過ぎるということもなく、かと言って収まりが付かないということもなく絶妙なラインで各場面を纏めていたと思いました。
ここまで触れていませんでしたが、主演の萩原利久さんの覇気のない姿と絶望をここまで日常に溶け込ませられる演技も、快活さと最後の悲痛な叫びの両面を描き切った藤堂日向さんの演技も、どちらも良い味を出していました。
敢えて原案となった楽曲は触れずにここまで考察を展開していったので、今後はそちらも噛み締めつつ感想を暖めなおしてみたいですね。
#稗田劇場 ご視聴ありがとうございました!
— 稗田寧々のまもなく上映開始です (@hieda_movie) January 20, 2025
お腹が空く配信でしたね。
写真は塩むすびを頬張る寧々さん😊
アーカイブもありますので、
まだ見てない方はぜひ!!
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