拠り所とは当たり前なこと~『信仰-Faith-』を読んで~
前回の『コンビニ人間』からの関連となりますが、推しの存在とは最早「推し」などとファンシーな語感では片付けられない程人々の心の中に根付いているように感じられます。
息苦しい社会から逃げるように、何か自分の心の支えとなるようなものに心酔して辛い思いを忘れようとする。それは「信仰」と言って差し支えないのではないでしょうか?
対象に対して恋焦がれて、敬虔な心を表すための言葉を口に出して、それでも足りないので色々な形で「貴方を慕っております」と伝えようとする…こう見ると何だか僕もやっていることのような気がしてきました。案外信仰って身近なもんですね(軽薄)
この作品では、元同級生の向こう見ずなアホ男子が不思議な魅力を持つ騙されやすい少女を巻き込んでカルトをはじめて一儲けしてやろうと画策している所を、「現実」への異常なまでの執着を持つ主人公が同級生のよしみで止めようとするところから展開していく。
主人公は当初そんな勧誘など颯爽と躱して「また馬鹿なことやってるんだよあいつ」と今度の女子会のネタにしてやろうといった軽い気持ちで臨んだのだが、「少女を助けたいから」という理由で何度も何度も勧誘の場に立ち会う内にその根幹へと飲み込まれていってしまう。
作中で著者村田さんの「なんとも形容しがたい違和感」が徐々に姿を現しています。
最初の印象では生真面目な主人公が、同級生が悪事を企み不遇な友人を唆す事を止めようとしているだけに見えるのですが…どこかずっと妙な雰囲気が流れてるんですよね。
女子会で聞く「謎の最先端医療」「聞き馴染みのない同世代から崇拝されているブランドの食器」、少女が語る「絵空事のように思える理論」、どれも何か引っ掛かりを感じてしまいます。
学生から就職し大人になり数年、色々なものを見てきた上で徐々に各々の価値観の中で固定化されつつも独自性に富んだ20代半ば〜後半らしいトピックが並んでいるようではありますが、スタンダードでありつつも不安定さを孕んでいます。
主人公に関しても同様なことが言えます。原価至上主義…いいじゃありませんか、堅実な大人って感じで素晴らしいですね。でも友人関係や家庭関係にまで容赦なくヒビを入れるその姿には、立派な大人としてのスタンダードさと狂信的な何かを感じずにはいられません。
彼ら彼女らはブランドの食器や自分の主義・信条に対して他人にイエスとしか言わせない狂信的な姿勢とそれが誰にとっても当たり前であるという盲目さを備えているのであると思います。
たまたま周囲に同じ境遇の人がいるから、たまたまそんな敬虔なる信徒の自分を認めてくれる呆れている人々しかいなかったからスタンダードのように見えていただけで、フラットな立場の人やノーと言える人が入ってくればその前提は崩壊します。
女子会においては最初こそ「同年代の子達に合わせなきゃ」と同族を演じていた主人公ですが、徐々にその皮が剥がれてきたのもフラットな立場に移行してきたからこそです。
それと同時に逆もまた作中では起こっています。
カルトに対して、冒頭で主人公は「馬鹿馬鹿しい」といった気持ちで見ていました。しかし少女の異常を通り越して純粋無垢なまでの信仰心に感化され、彼女の信徒となりスタンダードな世界が作中全体を覆い包むことになります。
世間一般的なカルトや新興宗教はこういった流れで人々の「当たり前」を崩壊させているのではないか?と思いましたね。
物語全体を通して、『コンビニ人間』では主人公のブレない軸が根底にありました。
しかし今回の『信仰-Faith-』では、主人公を通じて何かしらの拠り所が無いと生きていけない弱さと拠り所に裏切られる理不尽を描いているように思えましたね。
何事も「のめり込み過ぎ」には要注意ですね。
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