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霊性と国鉄

霊性について調べるという行為は、自分の感情に耳を傾けるということと似ている気がします。自分が失っていたものを、取り戻している感覚に近いです。

論文の具体例について、今回は霊性と国鉄について話そうと思います。

国鉄?????

僕自身は全く電車とか興味ありません。
湘南新宿ラインで行先変更があるとか、就活で東京に来て初めて知りました。

弊写真部のある後輩くんで、撮り鉄の子がいるんですね。
(彼の名誉のために言っておくと、彼はマナーを守る撮り鉄です)
その子と話していたら、「昔の国鉄時代の車両の方が、心惹かれる」
そう言うのです。

彼はその違いについて、写真を見せてくれました。

上が国鉄時代、下がJR時代の列車

なるほど、確かに全然違う。
自分も国鉄時代の車両の方が、好きかもしれない。

国鉄の方は、なんだか不朽のデザインのような気がする。
古くなっていても、かっこいい。
重厚感があって、力強さを感じる。

対してJRの方は、なんだかデザインはイマイチというか。
なんだか心惹かれないんですよね。

撮り鉄の彼曰く、機能性は確かにJRの車両の方が良いのだけど・・・だそう。

この話を聞いた時、あー、この違いはきっと「霊性の有無」だ、そう思いました。

ここで、私の卒論における霊性の定義を少しだけ話すと・・・

「霊性」は、「父性」と「母性」という二項対立における「両性具有性」の境地にあります(と卒論では論じました)。もしくはそれらが主客身分、絶対矛盾的自己同一となっているときに立ち現れます。
「父性」(切断する原理)は、物質や概念を切断して二項対立に分けることで、あらゆる制作を可能にします。三島の述べた「創造」概念に直結します。
「母性」(包含する原理)は、物質や概念の特徴を包み込み、その前ではあらゆるものが平等性を持ちます。これは三島の述べた「礼節」概念に直結するのですが、「母性」=「礼節」はやや解釈を踏まえる必要があります。

ここで私の論文から引用します。

”礼節”とは語感から「マナー」や「モラル」のことだと理解することができる。より噛み砕けば「相手の立場を想像しながら、相手を敬う。しかるべき態度で接する」といったところだ。ここで参考にしたいのが、三島が敬愛したオスカー・ワイルドによる「魂」についての記述だ。ワイルドは『獄中記』のなかで、「他者」のために物を与えたり、奉仕したりするのではなく、すべては自らの「魂」のためにするのだと説いている(同、103頁)。ここから分かるのは、ワイルドのケアの倫理は「他者」を媒介して「多孔的な自己」を見出していくと言うものだ。「他者」の立場を想像しながら相手を敬う行為が、自らの「魂」、すなわち”霊性”の解発に繋がっているのである。筆者はこの点が「母性」=「礼節」と考える根拠である。

卒業論文『ケアとしての”霊性”という空間〜フェミニスト地理学における「両性具有的」転回〜』より

「母性」=「礼節」と言える根拠について実は悩んでいたのですが(元々は直観しかなかった)、恩田さんの先日のnoteが大きな助けになりました。いちど「礼節」を単純に「マナー」や「モラル」であると捉え、「相手の立場を想像しながら、相手を敬う。しかるべき態度で接する」。そしてケアの倫理学者の小川公代は、オスカー・ワイルドの述べた文章からケアの倫理を見出します。それは、他者を媒介して「(両性具有的で)多孔的な自己」を見出すということです。他者の立場を想像しながら相手を敬う「礼節」が「両性具有的で多孔的な自己」、つまり「霊性」を強く孕んだ自己を可能にするのです。両性具有性とは男性性(父性)と女性性(母性)ですから、「母性」=「礼節」となるわけです。

そして、もう一度引用を。

 極東の仏教においては、歴史的な個人である覚者(覚りをひらいた人すなわち仏陀)ゴータマ・シッダッタの存在よりも、超歴史的で超個人的な仏陀というべき「法身(ほっしん)」(大宇宙すべてのものを統べる原理にして大宇宙そのものでもある存在)の方がより重視された。(中略)大拙の師たちは「法身」を、ヨーロッパ的つまりは一神教的な、万物に超越する存在ではなく、万物に内在する存在として捉え直した。そして「法身」は森羅万象あらゆるものがもつ「心」(霊性)に内在している。森羅万象あらゆるものは「心」のなかに仏陀(如来)となる可能性(「仏性」)を、種子や胎児のように孕んでいる。これを「如来蔵」という。

 「法身」は色も形ももたず、まさに「空」(シッダッタは、全ては幻想であり、ただ「空」と諸要素の関係性しか存在しないと喝破した)であり、宇宙そのものと等しい(宇宙という「法」そのものを身体とする)。それ以外には何も存在しないという意味で、「法身」は絶対的に「一」なる、無限のものである。「空」にして「一」なる「法身」、すなわち「心」(霊性)から、無限の変化可能性をもった潜在的で多様な色と形が生まれ出てくる。その有り様を表現したのが、無数の如来(仏)、無数の菩薩(如来となる途上にある者)の群れとしてあらわされる無数の光輝くイメージであり、そのそれぞれが「報身」と名付けられた(「法」がそれぞれの反響にして反映である「報」として生み出された身体)。さらにその上、それら「報身」が変様し、具体的な色と形をもつに至ったものが「応身」である(「報」が「応」じた、つまりは具現化した身体)。「心」としての「法身」に近づいていく方法には、能動的なもの(「自力」)もあり、受動的なもの(「他力」)もある。前者を聖道門、後者を浄土門という。

卒業論文より(多くは安藤礼二『熊楠 生命と霊性』より引用)

霊性を鈴木大拙らは「あるがまま」の「心(Mind)」と表現しました。
霊性には東方仏教における「法身」(大宇宙すべてのものを統べる原理にして大宇宙そのものでもある存在)が内在しています。「法身」は「空」でもあります。これは素粒子レベルのものとイメージしてもらえれば良いと思います。量子力学の分野で、素粒子すらも点ではなく、ある関係性の交わるところにあり、それが点に見えているに過ぎない(「空即是色色即是空」、つまり「因縁果の道理」)ということがわかりつつあります。その関係性、因縁果の道理こそが「心」(「霊性」)なのだと思います。そして霊性を孕んだ素粒子たちは、寄せ集まって物質となります。それらを「報身」と呼びます。そして「報身」がさらに集まって具体的なモノ、私たちの「からだ」や「道具」などになっています。それらを「応身」と呼びます。

ここまで踏まえると、素粒子レベルの存在、つまり「法身」ですら「父性」的な何かと「母性」的な何かの交わったところに生まれているように思います。重要なのは、その法則に従っても従わなくても、私たちが普段作っているもの(「応身」)はできてしまうことです。ここでは国鉄とJRの電車を例に出しましたが、どちらも素粒子レベルの法身が集まって「報身」となり、それがさらに集まって「応身」となっています。この素粒子に通じる法則に近いあり方、「父性」と「母性」(三島のいう創造と礼節)の交わる法則のあり方をより体現しているものに、霊性を感じるような気がします。

そしてそのようなあり方というのは、ものづくりにおいてもおそらく現れます。それを三島由紀夫は芸術の文脈で、柳宗悦は民藝において著したのだと思います。

卒論では最後に例としてスティーブ・ジョブズを挙げたのですが、これは国鉄とJRにも当てはまると思います。天皇が神として在り、天皇と国民がコンヴィヴィアルな関係性だった時代を知る世代の人々は、天皇が機能的に補完していた霊性の直観が、今よりもあったんじゃないか。だから国鉄車両のデザインにも心惹かれるものがあるんじゃないか。そう思います。明確な根拠はありませんが・・・。

次回は父性・母性の「偏り」からくる、母性のエコーチェンバー的な心性について書きたいと思います。


今週の質問:2023年にやり残したことは何ですか?

金沢に行きたいなあと思っています。
鈴木大拙と西田幾多郎の記念館があるので。
学んだことは必ず自分の目で確かめると決めているのですが、今年はまだできていません。そもそも霊性とか確かめようがないけど。。。でも、今ある霊性の直観は本物の気がします。

あとは、店長にここまで育ててもらえたお礼をしたいです。

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