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自分の位置を見失わないこと

好きなクリエイターさんのnoteで、
「ふつう」「みんな」について読んだ。

その言葉を借りると、私は普通の人とは違うと思うし、みんなと同じことはできない。周りの人からそう言われることもある。



そもそも、「ふつう」ってなんだ。「みんな」がそんなに大事なのか。

人は悪目立ちはしたくないと思っていたり、自分以外の誰かと同じだと安心したりすることもある。それは私だってもっている感覚。

マナーやルールって、理不尽なものももちろんあるけれど、発端は、自分や周りの人を守るために生まれたもの。それらは他の人と同じ考えをもっているから共通の認識として守ることができるのだと思う。


だけど、その「ふつう」に振り回されて、自分を見失ってしまったら。

「みんなと一緒に」と必死になって、自分の答えを偽ってしまったら。

それは、本当に自分の意志であると言えるのだろうか。考えるのが面倒で、従うほうが楽だから、周りの意見を自分の意見として使っているだけなのではないのか、なんて思ってしまう。


だからと言って、私は「みんなと一緒は悪だ」「みんなと一緒で本当にいいの?」「みんなと違うことをしよう」というのが正しいとはどうしても思えない。

本当に周りと同じ意見であることもあるし、自分が納得できる範囲で、周りの人を尊重しているということもあるから。

本当のことや本心を言って、「みんなと一緒なんてよくないよ」と言われてしまったら、その人はそれこそ自分を偽ることになる。自分を見失わないための言葉のはずなのに、本末転倒。

「他の人からの見られ方を気にするのはよくない」というのも、また同じだと思う。これって、他の人のことを気にしすぎてしまって、自分を偽っていることが問題なのであって、他の人のことを全く気にしなくていいということではないと思うから。



言葉って難しいもので、よく言われるけれど、「言葉はその人を救うこともできるし、殺すこともできる」って、本当にその通りだと思う。

良かれと思ってかけた言葉が、相手を絶望に追い込んでしまうこともあるし、何気なく言ったことが何人もの人を救うきっかけになることもある。


ただ「みんな」や「ふつう」という言葉だけに捉われるのではなくて、その人がその言葉に何を感じ、何を見出しているのか。そこを見抜く力が、求められる気がする。


本当に望んでいることは何か、何に苦しんでいるのか、何をしたいのか。

そんな、本質を引き出すための素材を、投げかけることが、その人自身が考えて、望む答えを探し出せるのでは。なんて思っている。



「相手」とか「その人」という言葉を使って、あたかも他の人のことのように書いているけれど、自分自身も同じ。

自分が自分を偽っていると気づくことってなかなかできないから、相手のことを見抜くよりも、はるかに難しい。自分自身は今の状態が自分の望んでいる状態だと感じると思う。

だけど、気づかないうちに自分を偽ってしまうことって、多い気がする。私自身もそうだけれど、つい我慢してしまったり、つい人に合わせてしまったり。

その”つい”がたくさん重なると、本当に自分が求めている自分がどういうものなのか、見失ってしまう。

そんなことにならないためにも、日々、自分を取り戻す時間が必要かも。毎日とは言わないけれど。いや、私は毎日必要か。

今日の自分は何を我慢して、何を捨てて、どんな自分でいることができたのか。そんなことを、ぼーっとしながら、振り返る時間が、実はかけがえのないものなんだと、年を重ねるごとに思う。




「自分らしく」なんてかっこいいことは言えないけれど、せめて、「自分を見失わないように」って考えるのが、最近の私。


自分を見失うほうが、苦しいって知ってしまったから。

地図の上で、自分がどっちに進んでいるかを見定めるように、自分がどう動いていたのかを知ることが、自分を見失わないようにする第一歩だと思う。


こうして、言葉を綴ることで自分の位置を把握することも、私なりの方法。

そんな方法を、たくさんもっていたい。

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